2010年2月25日木曜日

竹島一件の決着   take_8591

re4)竹島一件の決着 2008/ 4/25 8:04 [ No.16497 / 16501 ]

投稿者 : take_8591


 独島に対する日本の領有権主張が誤りである理由(独島学会編)
  http://toron.chu.jp/take/krobject/dokdoob.html
 4、1696年1月に日本は鬱陵島と独島を朝鮮の領土であるとあらためて確認しこれを決定した。この事実は外交文書化され、朝鮮と交換された。
  江戸幕府は1696年1月28日、鬱陵島・独島を朝鮮領であることをあらためて確認し、日本の漁夫による鬱陵島・独島への出漁を禁止することを決定した。同時に対馬藩主に、刑部大輔を朝鮮に派遣しこの再確認と決定を朝鮮に知らせ、またその外交交渉結果を幕府に報告するよう命じた。
  対馬藩主は江戸から国へ戻り、この外交手続を開始した。
  朝鮮の礼曹参議・李善溥(イ・ソンブ)と対馬の刑部大輔・平善真の間で外交文書のやりとりが2度行われた後の1699年1月、日本から朝鮮に、朝鮮からの返書を幕府将軍に確かに届けたという最終確認の公式書簡が送られ、外交手続は全て終結した。
  こうして対馬藩主が長崎奉行と結託して朝鮮の鬱陵島・于山島を奪おうとして始まった鬱陵島・独島をめぐる争いは、1696年(粛宗22年)1月に終結した。
  鬱陵島・独島が朝鮮の領土であり、日本の漁夫らの越境・漁業を禁止することを幕府将軍があらためて確認・決定しており、これに関する外交文書のやりとりも1699年1月に最終的にすべて終了している。
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  上記の「江戸幕府は1696年1月28日、鬱陵島・独島を朝鮮領であることをあらためて確認し、日本の漁夫による鬱陵島・独島への出漁を禁止することを決定した。」とする文書は、
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/011.jpg
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/012.jpg
にあります。たぶん、次の様な内容が書かれています。(*1)

  先の太守が、竹島の事で、貴国に両度使者を遣わした。
  しかし、その仕事が未了の内に不幸にして早世したので、使者を召還した。
  不日に上京し(将軍の)謁を得た。この時、竹島の地状と方向を問われた。
  具体的事実に依拠して答えた。
  本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
  恐らくは、両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
  即座に令を下し、永久に入住・漁採を許さない様にした。
  それ隙は細美において生ずる。禍患は下賎において興る。これが古今の通病である。
  預かじめ定めておくが安らかと考える。之を以って100年の友好とする。
  偏った欲を篤くして、小さな島に拘らないことが、両国にとって美事である。
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  これは、「訳官へ達書」とされる文書です。この内容は、1696年10月16日、対馬島で朝鮮官僚に、口頭又は文書で通達されました。朝鮮官僚がソウルに帰還したのは翌年1月10日です。

  当時の徳川幕府は、竹島=鬱陵島と松島=リャンコ島を、別個の島として完全に認識していました。その上で、本決定が「竹島=鬱陵島」に関わることであると明瞭にしています。
  幕府は、(竹島には)「永久に入住・漁採を許さない様にした」のです。当然、松島=リャンコ島には、入住・漁採を継続する意思が込められています。

  1695年、対馬藩は4箇条を列挙して竹島の領有を主張しました。この様な合理的な理由を排除して非合理な決定をした理由として、上記は3点を掲げています。
  1 本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
  2 両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
  3 偏った欲を篤くして、小さな島に拘らない。

  結局、徳川幕府が選択したのは、道理ではなく、朝鮮との友好関係でした。


(*1) 先太守 因竹島事遣使 於貴国者 両度使事
   未了 不幸早世 由是召還使人
   不日上船入 覲之時 問及 竹島地状方向
   拠実具対 因以
   其去 本邦太遠 而去 貴国却近
   恐両地人 ●雑 必有 潜通私市等弊
   隨即下令 永不許入往漁採
   夫隙生於細徴 禍患興於下賎 古今通病 
   慮寧勿預 是以百年之好
   偏欲彌篤 而一島之微拠付不較 豈非 両邦之美事乎



re4)決着への道程 2008/ 5/ 1 6:35 [ No.16517 / 16520 ]

投稿者 : take_8591


  先の太守が、竹島の事で、貴国に両度使者を遣わした。
  しかし、その仕事が未了の内に不幸にして早世したので、使者を召還した。
  不日に上京し(将軍の)謁を得た。この時、竹島の地状と方向を問われた。
  具体的事実に依拠して答えた。
  本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
  恐らくは、両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
  即座に令を下し、永久に入住・漁採を許さない様にした。
  それ隙は細美において生ずる。禍患は下賎において興る。これが古今の通病である。
  預かじめ定めておくが安らかと考える。之を以って100年の友好とする。
  偏った欲を篤くして、小さな島に拘らないことが、両国にとって美事である
  ------------------------------------------

  この文意解釈を、竹島記事に拠ると次の様になります。

●不日に上京し(将軍の)謁を得た。
  この「不日」とは、1695年10月6日と思われます。
  この時、対馬藩主は江戸入りしましたが、日本領有派を同行せず、朝鮮領有派のみを同行させました。これが対馬藩主の最終決定であり、竹島一件を決定させたと言えます。

●本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
  対馬藩朝鮮領有派の主張は、「鬱陵島は輿地勝覧に載っているという朝鮮の主張を無視するやり方は、不義とまでは言えないとしても、とても忠功とは言えない」というものでした。これは、観念論に過ぎませんが、綱吉の好みそうな言葉であり、次の論理と表裏一体を為します。

●恐らくは、両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
  老中阿部は、「多田の4ヶ条に理があるから、領有問題を曖昧にしたままで、日本の渡海はこれまでどおりとしてはどうか。」という折衷案を出しました。しかし、対馬藩は、「そんなことをしたら、密輸事件が起こり、私市が立ち、大変なことになります。」と返答しました。朝鮮から「鬱陵島に渡海させない」との言質が取れない限り、鎖国令の国是が守れなくなるので、折衷案は存在しないというものです。

●偏った欲を篤くして、小さな島に拘らないことが、両国にとって美事である。
  史料は何もありませんが、これは上記議論を重ねた上での老中阿部の発言ではないかと推理します。


http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_00/index.data/siryo2.pdf

  老中阿部は、竹島渡海禁止を決定し、その為の事務手続きに入りました。
  それは、改めて、竹島が鳥取藩の領地であるか否かを問うものでした(1695-12-24)。対して、鳥取藩は自藩領ではないと答えました(1695-12-25)。この回答で、幕閣はフリーハンドを確認して、竹島渡海禁止を決定します(1696-01-28)。

  仮に、老中阿部が竹島を鳥取藩の領地と考えていたのであれば、訴えから2年半経過した時に、この様なピント外れな質問を発することはあり得ません。鳥取藩が紛争当事者であれば、その意思を仔細に聴取しなければ幕藩体制が成り立たないのは、鎌倉時代からの原則です。即ち、老中阿部が竹島を天領と考えていた事、紛争当事者は徳川家と考えていた事に間違いありません。
  竹島の書付は、幕府決定の要素ではなく、幕府決定後の実行手続きの一つに過ぎないものです。





竹島記事
http://take8591.web.fc2.com/kiji/kiji030/9000.htm



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