2010年2月25日木曜日

半月 日本は17世紀半ばに領有権確立



外務省パンフレットへの批判3、(1)     2008/ 4/16 21:08 [ No.16446 / 16480 ]
投稿者 : ban_wol_seong


3.(江戸時代の領有権)
 外務省曰「日本は、鬱陵島に渡る船がかり及び漁採地として竹島を利用し、
  遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました」

  外務省の「竹島」パンフレットは日本が17世紀半ばに「竹島の領有権」を確立した根拠として、大谷・村川両家が竹島=独島を下記のように利用したと記しました。
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  隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかりとして、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。
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  驚いたことに、パンフレットで外務省のいう根拠はこれがすべてです。一体、以前の公式見解はどうなったのでしょうか? かつての外務省は下記のように主張していました。
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  欝陵島への往復の途次、船がかりの地として、またアワビ等の魚採地として利用されていたのが当時松島の名でよばれていた今日の竹島であり、この島に対して大谷、村川両家が、さきの鬱陵島と同じく幕府から渡海免許を受けるようになったのは、明暦2年(1656年)またはそれ以降のことであった。
 ・・・
 『隠州視聴合紀』(1667年)も、松島(今の竹島)及び竹島(鬱陵島)をもって日本の西北の限界と見ている(注1)。
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  もし、かつての外務省がいうように、大谷・村川両家が幕府から「松島渡海免許」を受けていたのなら、幕府は竹島=独島に領土意識をもっていたことになり、領有の有力な根拠になります。
  また 1667年当時、隠岐国を管轄する雲州松江藩の命により編纂された『隠州視聴合紀』に竹島・松島が日本の西北の限界であると書かれていたのなら、これも竹島=独島に対する領有の強力な根拠になります。

  しかし、なぜかパンフレットはそうした有力な「根拠」を満載した過去の主張には一切ふれませんでした。特に『隠州視聴合紀』の解釈に関していえば、その解釈をめぐって韓国政府から日本の西北の限界は隠岐であるとの指摘を受けたにもかかわらず、それに対する反論がないばかりか、その後も『隠州視聴合紀』に関して沈黙したままでした。
  これは韓国政府がいうように、やはり日本の西北の限界を竹島・松島とするのは無理だと判明したからではないでしょうか。『隠州視聴合紀』で竹島(欝陵島)は御朱印を受けた船が行く場所と認識されていたのでした。
  外務省に追いうちをかけるように、池内敏氏は日本の西北の限界は竹島・松島でなく、隠岐島であることを論証しました(注2)。また、『隠州視聴合紀』を徹底分析した大西俊輝氏も同様の論証をしました(注3)。

  他方、外務省が「松島渡海免許」についても沈黙しているのは、やはりその主張も無理だと判断したからではないでしょうか。国会図書館の塚本孝氏も渡海免許は「恐らく出されなかった」と記しました(注4)。下條正男氏ですら「松島渡海免許」を主張していないようです。

  日本におけるこのような研究の結果、外務省のかつての主張は音もなく崩れさったようです。それは砂上の楼閣のような存在でした。その結果、外務省はパンフレットに書かれていることくらいしか領有権の根拠を見出せないようですが、それが不十分であることは明らかです。


外務省パンフレットへの批判3、(2)     2008/ 4/16 21:11 [ No.16447 / 16480 ]
投稿者 : ban_wol_seong

  かつて、外務省は江戸時代における領有権の根拠として必要な要件を次のように主張していました。
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  開国以前の日本には国際法の適用はないので、当時にあっては、実際に日本の領土として取り扱い、他の国がそれを争わなければ、それで領有するには十分であったと認められる(注5)。
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  ここに書かれた「実際に日本の領土として取り扱い」という要件を満たすためには、竹島=独島が官撰書や官撰図などの公文書にしかるべく記載されていることが必要です。しかし、そのような公文書は存在しません。
  公文書では、次節にみるように、史料『竹島之書附』などで竹島=独島は日本領でないとされます。さらに、官撰図でいえば、幕府の絵図や伊能忠敬などの地図に竹島=独島が記載されていないことは周知のとおりです。一方、鳥取藩の一部の地図に竹島=独島が記載されていますが、これは次節にみるように、当の鳥取藩が竹島=独島は自藩領でないと明言しているので問題外です。
  なお、長久保赤水の「日本輿地路程全図」を堀和生氏は官撰地図としていますが、赤水図はたとえ幕府の許可を得たとしても、幕府が発行したものではないので官撰地図とは呼べません。

  結局、日本は17世紀に竹島=独島を「日本の領土」ではないと考えていたことが明らかです。それでは、日本は同島をどこの領土と考えていたのでしょうか?

  江戸時代の史料に、松島(竹島=独島)は「竹嶋之内松島」「竹嶋近辺松嶋」「竹嶋近所之小嶋」などと書かれました。松島は竹島(欝陵島)の属島として扱われたことが明らかです(注6)。
  松島は、松の木が一本もないにもかかわらず松島と呼ばれたのは、竹島とペアで考えられ、縁起物の松竹という発想から命名されたようです。外務省が強調する赤水図でも両島はペアないしは一体に表記され、両島間に「見高麗猶雲州望隠州」などの書き込みがなされました。同図で松島・竹島は密接不可分の関係です。

  つぎに、ペアの一方である竹島(欝陵島)が朝鮮領と考えられていたことは幕府の外交文書を収めた『通航一覧』から明らかです。同書の巻129に「元和六庚申年、宗對島守義成、命によりて、竹島[朝鮮國屬島]に於て潜商のもの二人を捕へて、京師に送る」と書かれ、竹島は朝鮮国の属島とされました。。
  同書にいう潜商とは鷺坂弥左衛門・仁右衛門親子ですが、かれらが磯竹島(欝陵島)で材木を伐っていることが朝鮮に知られ、それを朝鮮通信使から指摘されたので、幕府としてはかれらを捕えざるを得なかったのでした。
  また、かれらを捕えた対馬藩は、かつて欝陵島へ移住したいと朝鮮へ申入れ、それを朝鮮から拒否されたことがありました。このように当時の幕府および対馬藩は欝陵島を朝鮮領と認識していたのでした。

  そのような欝陵島の属島である松島(竹島=独島)で大谷・村川両家が漁獲を行うことは、朝鮮国での密漁ないし略奪行為になることはいうまでもありません。そうした密漁や略奪を重ね、それを根拠に「領有権を確立した」と主張するのは、空き巣犯の居直りではないでしょうか。

(注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両政府の見解」
  『レファレンス』2002.6月号,P52
(注2)池内敏<「隠州視聴合記(紀)」の解釈をめぐって>
  『大君外交と「武威」』2006,P323
(注3)大西俊輝『続日本海と竹島』東洋出版,2007
(注4)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、1996,P2
(注5)外務省情報文化局「竹島の領有権問題の国際司法裁判所への付託につき韓国政府に申入れについて」『海外調査月報』1954年11月,P70
(注6)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院、1996、P74,78,80

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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