2010年2月25日木曜日

韓国の竹島認識 take_8591



2)韓国の竹島認識 1 2008/ 4/12 19:30 [ No.16416 / 16480 ]

投稿者 : take_8591



2 韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。

  2-1  韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。例えば、韓国側は、朝鮮の古文献『三国史記』(1145年)、『世宗実録地理誌』(1454年)や『新増東国輿地勝覧』(1531年)、『東国文献備考』(1770年)、『萬機要覧』(1808年)、『増補文献備考』(1908年)などの記述をもとに、「鬱陵島」と「于山島」という二つの島を古くから認知していたのであり、その「于山島」こそ、現在の竹島であると主張しています。
  -------------[ No.16409 ]-----------------------
  外務省のいう「韓国側」とは何を指すのか不明ですが、少なくとも韓国政府が日本政府に宛てた公式の反論に『三国史記』は登場しません。外務省は幻の主張に振りまわされる
  -------------[ 私  見 ]-----------------------
  韓国中央政府が「竹島問題」にどの様な考え方をしているのか、これを知るべき日本語サイトは存在しません。そこで、慶尚北道のサイト(*01)を見ると、【半月城通信】が強くリンクされていました。「外務省のいう韓国側」の一つに、半月城さんのサイトがあると想われます。
  *01) http://www.dokdo.go.kr/for/index.php?lang_code=JAP
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  2-2 しかし、『三国史記』には、于山国であった鬱陵島が512年に新羅に帰属したとの記述はありますが、「于山島」に関する記述はありません。また、朝鮮の他の古文献中にある「于山島」の記述には、その島には多数の人々が住み、大きな竹を産する等、竹島の実状に見合わないものがあり、むしろ、鬱陵島を想起させるものとなっています。
  -------------[ No.16409 ]-----------------------
  一方で、重要な『世宗実録』地理誌への反論はないようです。
  同書に「于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明であれば望見することができる」とあります
  -------------[ 私  見 ]-----------------------
  この記事は「韓国が古くから竹島を認識していたという根拠」として、かつての韓国政府が強く主張したのでした。しかし、独島展望台から年間何日独島が見えるのか、というレポートは一切為されていません。年間に少なくとも1日は独島が見える事は確認できているようですが、このことで「風日淸明, 則可望見」が証明出来ているとは考えられません。
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2)韓国の竹島認識 2 2008/ 4/12 19:36 [ No.16417 / 16480 ]

投稿者 : take_8591



2 韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。

  2-3 また、韓国側は、『東国文献備考』、『増補文献備考』、『萬機要覧』に引用された『輿地志』(1656年)を根拠に、「于山島は日本のいう松島(現在の竹島)である」と主張しています。これに対し、『輿地志』の本来の記述は、于山島と鬱陵島は同一の島としており、『東国文献備考』等の記述は『輿地志』から直接、正しく引用されたものではないと批判する研究もあります。その研究は、『東国文献備考』等の記述は安龍福の信憑性の低い供述(5.参照)を無批判に取り入れた別の文献(『彊界考』(『彊界誌』)、1756年)を底本にしていると指摘しています。
  -------------[ No.16409 ]-----------------------
  この文に外務省の調査不足が露呈しているようです。というのも、
  -------------[ 私  見 ]-----------------------
  『輿地志』(1656年)に「于山島は日本のいう松島(現在の竹島)である」なんて記載されていないからです。要するに、上に掲げた文献は改竄されたということです。
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  2-4 なお、『新増東国輿地勝覧』に添付された地図には、鬱陵島と「于山島」が別個の2つの島として記述されています。もし、韓国側が主張するように「于山島」が竹島を示すのであれば、この島は、鬱陵島の東方に、鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずです。しかし、この地図における「于山島」は、鬱陵島とほぼ同じ大きさで描かれ、さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位置している等、全く実在しない島であることがわかります。
  -------------[ No.16412 ]-----------------------
 そもそも絵図は地図と違って、不正確なのが特徴です。しかも『東国輿地勝覧』のように16世紀の絵図とあっては、離島などはその位置や大きさなど、ほとんどデタラメに近くて当然です。
  外務省は、于山島は「鬱陵島よりはるかに小さな島として描かれるはずです」と記しましたが、そうした批判は絵図でなく地図に向けられるべきです。
  これは単に東海に于山・欝陵の二島が存在するという空間認識を表現したと理解すべきであり、それ以上の議論は本末転倒です。
  -------------[ 私  見 ]-----------------------
  たとえ絵図であっても、東に在るものは東に描かれるべきでしょう。これを西に描いたのですから、「知らなかった」と判断するのは当然です。この事実から逃げた論理展開をするのでは議論になりません。
  尚、現竹島が西島と東島で構成されているという認識は、李氏朝鮮・大韓帝国においてありませんでした。この認識は、大韓民国において始めて得られました。
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    于山則 倭所謂 松島也



Re: 2)韓国の竹島認識 2 2008/ 4/12 22:31 [ No.16419 / 16501 ]
投稿者 : take_8591


 http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/mankiyouran.html
 によれば

  『萬機要覧』の該当部分はは、「文献備考曰 鬱陵島 在蔚珍 正東海中」から始まります。続いて、鬱陵島の地理・産物が語られます。
  その後、「新羅取之、後恐導倭為寇、刷出」・・・「高麗太祖」・・・「本朝 太宗」・・・「世宗二十年」・・・「成宗二年」・・・「輿地志云 鬱陵・于山 皆于山國地 于山則 倭所謂 松島也」「光海七年」・・・「載在輿地」・・・「粛宗十九年」と続きます。
  この様に、歴史的な事実を列記している中で、「輿地志云・・・」が記されています。即ち、1656年に起こった事実として、「輿地志云・・・」が記されています。しかし、1656年に発生した事実は「輿地志云 鬱陵・于山 皆于山國地」迄なのです。「于山則 倭所謂 松島也」は改竄された事実となります。
  もし、「于山則 倭所謂 松島也」が文献備考の編者の按記であるならば、それが適当な位置は、「龍福の供述はデタラメだが、この部分は信用できる」の意を込めて、龍福の供述の後に按記されるべきでしょう。

  しかし、萬機要覧を読み返すと、「光海七年」の出来事として「輿地志に載っている」と記されているのです。「光海七年(1615年)」に存在した「輿地志」とは如何なる文献なのでしょうか。光海君実録に依ると、「輿地志」ではなく「輿地勝覽」なのです。
  又、「光海七年(1615年)」に「倭所謂松島」は存在しないのです。


  こうなると、私の小さな頭脳ではまとめ切れません。要するに、「文献備考」の編者は、時間軸を無視したSF小説を書き上げたのでしょう。そして、李氏朝鮮の官僚は、原典に当たることをせず、SF小説を丸呑みする習性を持っていたのでしょうね。



re2)1656 - 柳馨遠 『輿地志』     2008/ 4/25 15:56 [ No.16501 / 16501 ]

投稿者 : take_8591


http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/02/1656.html
に次のとおりです。

Friday, February 22, 2008
1656 - 柳馨遠 『輿地志』 (「東国興地志」巻之七 江原道 蔚珍)


  柳馨遠(1622~1673)は、朝鮮王朝、顕宗王の時の実学者で、1656年に全国地理の本である「東國輿地志」を編纂しました。(ソウル大学奎章閣サイト・韓国語 )


  韓国側は「東国文献備考・與地考」(1770)や「萬機要覧」(1808)に「輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の所謂松島なり」と言う引用がある事を挙げ、安龍福の渡航や日本よりも古い文献に倭の松島(現在の竹島)が于山島だと認識していたという論拠としてきました。この本は長く遺失されたとされてきましたが、2006年に済州大学の呉相学氏によって確認された「東国興地志」には下記のように書かれており、実際は従来からの日本側の主張のように、「于山は即ち倭の所謂松島なり」と言う記述は無かったことが明らかになりました。

  「于山島鬱陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説干山 鬱陵 本一島 地方百里」

  ちなみにこれは「新増東国輿地勝覧」 の記録をそのまま引用していることが分かります。

  「于山島鬱陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説干山 鬱陵 本一島 地方百里」

  安龍福の竹島一件の後、安の証言である「于山は即ち倭の所謂松島なり」という言葉が「輿地志」に書かれてあったと言う、誤った記述が、1700年以降の「東国文献備考」や「萬機要覧」を始めとする朝鮮の書物に登場するようになり、韓国側もこれらの文献をを根拠に于山島が竹島・独島(倭の松島)であると主張します。しかし、以下のように文献を年代にそって並べると、申景濬が1756年の「疆界誌」の中で輿地志の記録の後に“所謂松島 ”と言う自説を追記していること、1770年の「東国文献備考・與地考」でそれを「輿地志」の記述であるかのように書き変えている事が明確に分かります。以降に編纂された「萬機要覧」 「増補文献備考 輿地考」は、原著である「輿地志」からではなく、「東国文献備考・與地考」からの孫引きで引用している為、この誤記が受け継がれていったようです。

 1756 - 申景濬「疆界誌」『旅菴全書』巻之七 「疆界考」十二 鬱陵島
    「按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島
     而考諸圖志二島也 一則其所謂松島
     而蓋二島 倶是于山國也」

 1770 - 申景濬・洪啓禧 「東国文献備考・與地考」 
    「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」

 1808 - 「萬機要覧 軍政篇 (1937 朝鮮総督府)」
    「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地. 于山則倭所謂松島也.」

 1908 - 李萬運「増補文献備考 輿地考」
    「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地. 于山則倭所謂松島也」

  このように流れを追っていくと、申景濬が「東国文献備考・與地考」を編纂する際に、自分の意見をあたかも輿地志からの引用であるかの如く改竄している事が分かります。、誤記であることが明らかな文献を根拠として領土の根拠として主張することは、愚かであると言わざるを得ないのです。



re2)1756年と1770年の申景濬      2008/ 4/30 20:16 [ No.16514 / 16520 ]

投稿者 : take_8591


  -----半月城さん-----[ No.16410 ]-----------------------
  古文書は日本のみならず韓国や中国でも句読点が一切ありません。したがって、この場合でも分註のどこまでが引用で、どこからが申景濬の見解なのかはっきりしません。・・・『東国文献備考』の場合は、「欝陵 于山は皆 于山国の地」が引用文であり、それ以下の「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」は申景濬の見解であることが『輿地志』からわかります。
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  申景濬は、引用文と私見を区別する方法を知らなかったのでしょうか。
  1756年には、引用文を「輿地志云 一説于山鬱陵本一島」と記し、私見を「而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島 倶是于山國也」と表しています。間に「而考」を挿入することにより、引用文と私見を区別しています。
  ところが、1770年になると「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」と記しています。この様に表すと、その全てが引用文と解されます。
  この間16年で、申景濬はボケてしまった。というのが半月城さんの意見です。

  もし、申景濬に史書改竄の意図が無ければ、「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地」「而考龍福供述」「于山則倭所謂松島也」としたでしょう。1756年に知っていた手法を1770年に使わなかったという事実は、改竄の意図があったと判断せざるをえません。


  尚、この問題が解決した場合でも、この按記が挿入された場所の問題は残ります。



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