re3)御老中様へ得御内意申候 2008/ 4/19 12:08 [ No.16456 / 16480 ]
投稿者 : take_8591
池内氏の論文に「史料7」が示されており、そこには「来年より竹島之内松島へ貴様舟御渡之筈に御座候旨、先年四郎五郎御老中様へ得御内意申候」とあります。*1)
http://take8591.web.fc2.com/06web/9100etc/080417/ss07.jpg
この意味は、次のようなものであると考えます。
既に竹島渡海免許は発布済みであるが、来年より「竹島之内松島」への渡海免許を得たいとの申出があったので、老中に伺いを立てたところ、「竹島之内松島であれば、新しく渡海免許を発行するまでも無く、竹島渡海免許の拡大解釈で松島に渡海できる」との御内意を得た。
現代風にいうと、本庁の課長である阿部四郎五郎が老中の内意を得たと、係長の亀山が民間業者の大谷に渡した文書と考えられます。この様に考えると、立派な公文書であり、松島領有の有力な証拠となります。
しかし、外務省や島根県が、この文書を示しコメントを加えた事実を知りません。
「国による資料や認識と個人的なそれとは峻別したいものです*2)」と述べられておられる半月城さんは、「江戸時代の史料に、松島(竹島=独島)は「竹嶋之内松島」「竹嶋近辺松嶋」「竹嶋近所之小嶋」などと書かれました。[No.16447]」と言われています。上記「史料7」は間違いなく公文書なのでしょう。
又、henchin_pokoider01さんが、「幕府の領有意思を推認できる史料である」というような事を言われていたと記憶しますが、投稿noが判らないので判然としません。
*1)次の1999年の池内氏の論文「竹島渡海と鳥取藩」より抜粋
http://www.kr-jp.net/ronbun/ikeuchi/ikeuchi1999.pdf
*2)本掲示板[No.886]、及び歴史資料から考える独島論争(2007年3月発行)
re3)竹島渡海免許の目的 2008/ 4/19 12:09 [ No.16457 / 16480 ]
投稿者 : take_8591
1999年の池内氏の論文「竹島渡海と鳥取藩」に次の内容がありました。
「多聞院日記」天正20(1592)年5月19日条に、伯耆人弥七が「いそたき入参」を持参して奈良興福寺多聞院英俊のもとを訪れたとする記事がある。中村栄考はこの記事から、磯竹島が薬草としての人参の産地として知られていたことを推測する[中村業幸460頁]。
元和4(1618)年七月、出雲三尾関の住人馬多三伊ら7名が鬱陵島出漁中に漂流して朝鮮に至り、
元和6(1620)年には、ひそかに竹島渡海を行っていた対馬人弥左衛門・仁右衛門が捕えられて処罰された、
こうした事例からすれば、寛永1(1624)年竹島渡海免許が大谷・村川両名に発給される以前、偶然の漂着ではなく意識的な竹島渡海を行う者が既に存在した。
ここで、元和4年に竹島渡海を行ったのは出雲三尾関の住人であった。大谷・村川が竹島渡海を行う際には、米子から出雲雲津を経由して隠岐島後福浦へ渡リ竹島へかったというから、出雲・隠岐の住人が独カで竹島渡海を行うこともありえた。
そして寛文6(1666)年朝鮮に漂着Lた大谷船の場合、乗員22名の生国の内訳は、伯耆13名・隠岐9名であった(竹島考・大谷之船漂到朝鮮国)。
万治3年~延宝9(1660-81)年の間の時期には、材木伐採を目的に大谷・村川以外の「他所の者」が竹島に入り込み、「脇より訴訟人達の六ケ敷事出来」という(大谷家2-20.29)。
また、享保7(1722)年、石見国安濃郡の3名が7年以前に竹島で潜商行為をはたらいたとして処分された(内藤正中1995、16頁)。
さらに[史料8]に登場する鳥取城下の初期商人石井宗悦は何らかのかたちで竹島渡海に関与しようとした、
おそらく因幡国も含めて山陰地域の人々には竹島渡海とその利益にあずかる可能性があり、大谷と村川が互いに競争者となりうる可能性すら皆無ではなかつた。
このように藩領を越えた各地に潜在的に競合する勢カがあったから、大谷・村川は鳥取藩の免許ではなく幕府の免許をこそ求めた。それが「寛永初年竹島渡海免許」であった。そうして競合する勢カを排除しあるいは配下に収めながら、大谷・村川は竹島渡海の利権を排他的に確保Lていった。
もっとも「竹島渡海免許」は寛永2年(又は元年)の一回限りに発給されたものであり、その後更新されることはなかった。そのため「竹島渡海免許」発給を機に始められた公義御目見と、そこに形成された幕閣とのつながりを誇る由緒が、競合者を排除する役割を補完した。
re3)幕府と両家は公的・継続的な関係 2008/ 4/19 12:25 [ No.16458 / 16480 ]
投稿者 : take_8591
1999年の池内氏の論文「竹島渡海と鳥取藩」の続きです。
その大谷・村川の公義御目見は、四、五年に一度ずつ阿部四郎五郎家が寺社奉行へ申入れることによって実現されたから、仲介者が継続の努力を払って初めて維特されるものであった(後述)。とすれぱ、幕府と大谷・村川両家との関係は、必ずしも公的・継続的なものではなく、代々の阿部四郎五郎家による仲介の努力によって維持された私的・不定期の関係であった。
・・・・・・・
ところで、延宝9(1681)年3月29日日、阿部四郎五郎正重は小普請入りとなリ公務を離れることとなった。このためこの年から大谷・村川両家の公儀御目見は鳥取藩が取り持つこととなった。
・・・・・・
これまで大谷・村川・阿部三家は、その代替りごとに竹島渡海に関わって相互に再確認しあい、密接な関係を継続・保持してきた。その関係を前提にして阿部の仲介による大谷・村川の公義御目見が実現し、竹島渡海の利権が護られてきた。それが、延宝9年7月の事態を境にして、公義御目見の取持ちが阿部四郎五郎家から鳥取藩に切り替わった。このとき、新任寺社奉行に対し御目見の先例について鳥取藩が説明しなおしたと同様な意昧合いで、大谷・村川家の側が竹島渡海の先例・由緒について改めて説明しなおす必要があると考えても当然である、それはいきおい由緒正しさを強調することとなったから、竹島渡海の歴史をより古く遡らせて説明することともなった。ここに寛永初年竹島渡海免許を元和四年のものと主張する根拠があった。
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池内氏は、「幕府と大谷・村川両家との関係は、必ずしも公的・継続的なものではなく、私的・不定期の関係であった。」と言われます。
(「後述」という部分に読み落としがあるのかも知れませんが、)
しかし、大谷村川両家は日本の公共資産を排他的に独占使用しているのですから、日本の主権者が4・5年に一度その見直しをするのは当然です。その継続を申請できるのは公的機関だったようです。阿部家が公的機関である立場を失った時、替わって申請手続きを執ったのは公的機関たる鳥取藩でした。
芹田健太郎の「日本の領土(中公業書)」153頁につぎのとおりです。
「日本政府はこの領土編入行為を無主地に対する先占行為とは認めておらず、この点に関する日本の主張は、開国以前の日本には国際法の適用はないので、当時にあっては、実際に日本で日本の領土と考え、日本の領土として扱い、他国がそれを争わなけれぱ、それで領有するには充分であった、と認められる、というものである。」
江戸幕府で竹島松島を担当したのは寺社奉行だったようです。この事から、「実際に日本で日本の領土と考え」「日本の領土として扱」っていたことが確認できます。又、竹島松島渡海事業を「他国がそれを争」った事実はありません。すると「それで領有するには充分であった、と認められる」。
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