2010年2月25日木曜日

世相実録を優先する理由

re2)世相実録を優先する理由 2008/ 4/25 15:44 [ No.16500 / 16501 ]

投稿者 : take_8591


  世相実録地理誌は1454年に編纂され、輿地勝覧は1530年に編纂されたものです。「鬱陵島から見える島はなにか」を争うのに適している史料はどちらでしょうか。
  後年に編纂された史料は、旧年の史料に新たな知見を加えて編纂されたと解されますから、輿地勝覧を以って争うのが適していると言えます。

  ところが、「世宗実録地理誌がより重要である」と主張する人がいます。
  同書に「于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明であれば望見することができる」とあり、鬱陵島からチェクトは「風日清明」でなくとも見え、リャンコ島は「風日清明」でなければ見ることができないから、「韓国が古くから独島を認識していたという根拠」なのだ。と言うのです。


  どうして、頑なに「輿地勝覧」を拒否するのでしょうか。

  それは、「輿地勝覧」の解は「内陸から鬱陵島が見える」の意であると結論が出ているからです。
  肅宗実録、1694年08月14日の項に次のとおりです。[ No.16242 - 16258 ]
  「鬱陵島は、峰巒と樹木の状態を、内陸でもありありと眺めることができる・・・・と『輿地勝覧』に載っており、歴代に伝えられている。」と。
  →→結論の出ている土俵では争わない方針の様です。


  又、「鬱陵島からリャンコ島が見えるか」という命題も結論が出ています。
  朝鮮は多くの鬱陵島検察をしていますが、1694年に「300里先に鬱陵島の1/3程の島を見た」と報告し、1882年には「山に登って四望したが、海中の先に一点の島嶼の見形無し」と報告しています。この2回以外では「望見する」ことすら思いつかなっかたと考えられます。
  「知っていますか日本の島(自由国民社)」に下條正男氏の論文があり、その21頁に氏自身が「2000年9月上旬、鬱陵島の独島展望台に行ってみて、そこの売店のおばさんに「独島は見えますか」と聞いてみたが、「今年は7月に一度見えただけ」とのことで、「晴れた日には見える」ということではないらしい。」と記しています。
  これらの資料から判断するに、「風日清明」なる日は年に数日しかないものとしなければなりません。それでも「見える」と主張するのでは、最早、領有権争いではありません。
  しかし、「見える」と難癖を付けられるのは「世宗実録地理誌」しかありませんから、これにこだわり続けるのです。→→論破されていないと主張できる余地がある限り諦めない方針の様です。


  光海君・肅宗・高宗の朝鮮王が鬱陵島にかかる意思決定に、「輿地勝覧」を用い「世相実録地理誌」を用いていません。それでも尚、「世宗実録地理誌がより重要である」との認識を持ち続けるのは合理的ではありません。非合理な意図がここから読み取れます。



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