2010年2月25日木曜日

松島渡海免許について

松島渡海免許について

  川上健三氏は、「万治二(1659)年に阿部四郎五郎が松島渡海に関する幕府の内意を得、寛文 元(1661)年から大谷家の松島渡海が始まったと推測する。 (*1)」と述べます。
  一方、池内敏氏は、「松島渡海免許なるものは存在しないのである。・・・新たな渡海免許の発行ではなく、渡海をめぐる大谷・村川両家の利害調整に過ぎなかった。 (*1)」と述べます。
  これを受けて、半月城さんは、「史料を丹念に検討すれば「松島渡海免許」は存在しないという結論が妥当なところを、川上健三氏は「竹島日本領説」に執着するあまり「松島渡海免許」を創作してしまったようです。ありもしないものを創作する行為、これは捏造といっても過言ではありません。 (*1)」と述べます。

  半月城さんは、「史料を丹念に検討すれば」と言われますが、川上氏と池内氏が同一の史料を元に違う結論に至っていたことが、池内氏の 竹島渡海と鳥取藩 から判ります。私は川上氏の論文を見たことがありませんので、池内氏の論文からその趣旨を推測するしかありません。

  池内氏の主張は、「寛文6(1666)年、大谷船が朝鮮に漂着して対馬藩による所持品検査がなされた際、「竹島渡海免許」は見いだされたが「松島渡海免許」なるものは見当たらない。発行からわずか10年を隔てない時期に、大谷船はなぜゆえに免許を携行しなかったのだろうか。」という疑問から出発します。

  そして、池内氏は、史料4・史料5・史料6・史料7の検討を開始します。尚、これらの史料は川上論文からの引用ですから、両氏は同一の史料を用いたことになります。
  これらの史料から、村川家は単独でも松島渡海を行いたいと言い、大谷家は松島渡海に利益なしという立場で対立していました。そこで、両家は意見調整を阿部に求めていたという状況が判ります。こうした状況を踏まえ、池内氏は結論を歪めます。
  1 1640年代後半ないしは50年代はじめから、右史料傍線部に見られるような松島経営の展望を温めていた村川からすれば、たとえ単独であっても松島渡海事業は行いたかったであろう。そして遅くとも明暦3(1657)年にはそれを実行に移していた。こうして村川単独による松島渡海の既成事実が進められていた以上、阿部四郎五郎の存生中に老中から得たという内意(史料7b)は、松島渡海の新規許可ではありえない。
  2 「市兵衛殿・貴様へ」交付した「証文(史料7c)もまた同様に松島渡海の新規許可ではありえない。それらは「市兵衛殿・貴様」両者へ交付されたものであったから、村川単独により既成事実化された松島渡海を追認し、免許を与えるものともなりえない。
  3 先年渡しておいた「證文」どおりに「船御渡可被成」(史料7d)ともいうのだから、「内意」にしろ証文にしろ、おそらくは村川が先行して進めていた単独での松島渡海を刷新し、大谷・村川双方による渡海事業へと調整する内容をもつものではなかっただろうか。大谷と村川の「談合」(史料5f)や「御相談」(史料7c)を重視したのはその点と関係する。

  しかし、この結論はおかしい。
  1 村川単独による松島渡海の既成事実があるから新規許可ではありえない。というが、既成事実に対して「遡って」新規許可を与えるというのはまま行われていることです。
  2 既成事実化された松島渡海を追認し、免許を与えるものともなりえない。というが、前項と同じです。排他性を持たなかった事業に対し、改めて排他性を与えるという行為に矛盾はありません。
  3 大谷・村川双方による渡海事業へと調整する内容をもつ。というが、この側面を持つことは否定できません。しかし、全面的に「調整」の意義しか持たないというのは言い過ぎでしょう。町人間の調整に老中が乗り出すと考える方が、余程おかしいと思います。

  ところで、史料4「竹島渡海筋松島」・史料5「松島近所之小島」・史料7「竹島之内松島」と表現されていることです。しかも、私の感覚では、段々と竹島松島が一体であるの意が強くなっているような気がします。
  この竹島松島一体の概念は、竹島渡海免許しか持たない村川家がその排他性を主張するために用いたのか、阿部家が両家の調整のために用いたのかは判りませんが、この概念を用いて阿部四郎五郎は老中から「松島渡海の内意」を得ました(史料7b)。
  この様にして得た老中の「松島渡海の内意」とは、既に許可している竹島渡海免許の竹島には「竹島之内松島」が含まれるというものであったと考えられます。竹島という文言の解釈を変え、竹島に松島が含まれると拡大解釈を許したということです。

  すると、前に掲げた池内氏の「発行からわずか10年を隔てない時期に、大谷船はなぜゆえに免許を携行しなかったのだろうか。」という疑問への解答は、携行していた竹島渡海免許が松島渡海免許でもあったからです。寛文六年、竹島渡海の帰りに漂流した大谷船が「寛永初年 竹島渡海免許」の写のみを携行し、松島渡海免許を携行しなかった様に見えるのは蓋(けだ)し当然であったのです。

  結局のところ、池内氏の「松島渡海免許は存在しない」という見解は、幕府の許可=幕府の領有認識を問うものではなく、単に、物体として独立した「松島渡海免許は存在しない」とするものに過ぎないのです。


猛の竹島日記: http://take8591.web.fc2.com/10point/3-010/99001.htm

(*1) http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm106.html#No.778



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