2010年2月25日木曜日

独島は日本の「固有領土」か?  半月城

独島は日本の「固有領土」か?

 『民団新聞』 2006-05-10 

外務省ホームページに見る薄弱な根拠  独島問題 歴史的・根本的に考える


 正しく知らない実状

 昨年、島根県が「竹島の日」条例を制定したことに韓国が猛反発して一騒動あったが、今年は日本が独島(竹島)周辺の海域を測量しようとしたため韓日両国間で衝突寸前の悶着があった。これに関連して廬大統領は特別声明を出し「どんな費用と犠牲があっても、決してあきらめたり妥協したりできない問題」と決意を語るほどであった。

 これまでにも独島問題は韓日間でしばしば大騒ぎになるが、その割には日本で独島の歴史的背景が正しく知られていないのが実状である。

 そのいい例が外務省のホームページである。ホームページは「竹島は日本の固有領土」と書いているが、実はこの根拠がはなはだ薄弱なのである。その外務省の主張を多くの日本人はそのまま信じているが、そこにどのような問題点があるのか、この稿で明らかにしたい。

 1.江戸時代の「竹島拝領」という記録

 外務省のホームページ「竹島問題」は独島を「日本の固有領土」とする根拠の第1点目をこう記した。

 「江戸時代の初期(一六一八年)、伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも一六六一年には、両家は幕府から竹島を拝領していた」
 外務省は大谷家に伝わる私文書を引用したのか、同家などが欝陵島や独島を幕府から「拝領」したなどと記すが、これは我田引水といっていい。江戸時代、武士でない大谷、村川家のような町人が幕府から領土を拝領することはあり得なかったのである。
 もちろん「拝領」を裏づける公文書など存在しない。存在するのは、両家が竹島(欝陵島)へ渡海することを許可した老中連署の鳥取藩への書状のみである。大谷家はそれを誇大に「竹島拝領」と表現したのである。誇張表現は私文書では日常茶飯事なので、そのような私文書などを領有権の根拠とするのは妥当でない。
 独島の領有権論争においては、国家の領有意識がどうであったかが鍵になるので、それを示す公文書の存在がきわめて重要である。今から50年前の外務省もそう考えたのか、韓国政府との独島論争の書簡において、領有権の根拠として『隠州視聴合紀』(1667)を持ちだしたことがある。この書は隠州の郡代である斉藤豊仙により書かれた隠岐国の見聞録であるので公文書に準じるといってよい。

 斉藤は、同書のなかで日本の西北は「此州」すなわち「隠州」が限界であると記した。その際、斉藤は松島・竹島を隠州に含めなかったのである。ここにいう松島は今日の独島、竹島は欝陵島をさす。それにしたがい、この稿では江戸時代における両島の日本名を松島、竹島とする。

 松島・竹島をよく知る斉藤が、両島を日本の限界の外、すなわち領土外と考えていた事実は重要だ。その背景だが、斉藤は大谷・村川両家の竹島(欝陵島)への渡海船を異国へ渡る朱印船のように考え、村川船について「村川氏、官より朱印を賜り大舶を磯竹島に致す」と同書に記録している。磯竹島は竹島を指すが、斉藤は松島・竹島を日本の地でなく、異国と考えていたようである。

 日本政府はこの『隠州視聴合紀』を引用して松島・竹島を「日本の西北部の限界」だったと主張したのである。これは同書に書かれた「此州」を「この島」すなわち松島・竹島であると曲解したことによる。日本政府の解釈が無理であることは同書を底本にして増補した『隠岐国古記』の記述でも明らかだ。同書は「日本の乾地(いぬいち、西北の意味)此国を以て限りとする」と書き、「隠岐国」を日本の西北の限りとした。

 さらに、これに関する徹底的な論証が最近では名古屋大学の池内敏教授によりなされ、松島・竹島が当時は日本の領土外だったと結論づけられた。さらに、外務省があげた当時の代表的な地図である長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)においてすら、両島を日本領と見るのは困難である。同図で松島・竹島は朝鮮半島と同じく無色に彩色されたので、両島は異国と見るのがむしろ妥当である。

 2.松島(独島)の所属

 外務省のホームページは独島を日本の「固有領土」とする根拠の2点目をこう記した。「一六九六年、鬱陵島周辺の漁業を巡る韓日間の交渉の結果、幕府は鬱陵島への渡航を禁じたが(「竹島一件」)、竹島(独島)への渡航は禁じなかった」
 外務省は「竹島一件」を韓日間の漁業交渉としているが、実は、これは竹島(欝陵島)をめぐる朝鮮王朝と日本との領有権交渉であった。領有権論争に敗れた江戸幕府は、日本人の竹島への渡航を禁止したのである。その際、幕府はたしかに松島(独島)への渡航を禁じなかった。といっても、幕府は同島を日本領と考えていたわけではない。それどころか、当時、江戸幕府は松島の存在自体をほとんど知らなかったのである。

 実際「竹島一件」の時、幕府は実情把握のため鳥取藩に「竹島の他に両国へ付属する島はあるか」との質問書を出したほどであった。文中の両国とは鳥取藩が支配する因幡国・伯耆国を指す。幕府は異例の渡海申請があった竹島を知ってはいても、松島をほとんど知らなかったのである。

 それも無理のないことだ。幕府の地図に竹島や松島は記載されていなかったからである。当時の幕府の地図は各藩が作成した国絵図が中心だが、竹島に関係の深い鳥取藩自体、松島・竹島を自藩領でないと確信していたので、鳥取藩や幕府の地図に松島・竹島がないのは当然である。しかも松島は竹島とちがって渡海許可書などもないので、幕府が松島を知らなかったのも無理はない。

 竹島が鳥取藩に知られるようになったのは、1620年ごろだった。米子の回船問屋である大谷家の船が漂流中に竹島を偶然見つけた。その島は、朝鮮政府が倭冦対策のため空島政策をしいていたので無人島だった。しかも同島は自然資源が豊富な宝の島だった。そこで、大谷・村川両家は鳥取藩を通じて幕府から渡海許可を得て、竹島で数十年間にわたり漁労などを行った。その際、両家は幕府老中の内諾を得て松島で多少の漁労を行った。しかしながら、幕府内ではそうした事情が伝承されなかったのか「竹島一件」当時、幕府は松島をほとんど知らなかったのである。

 一方、松島・竹島をよく知る鳥取藩であるが、竹島(鬱陵島)渡海許可が幕府から出されたことから、両島は幕府所管であり、自藩領ではないと同藩は考えていたようである。したがって、鳥取藩が幕府の質問書に対して「松島・竹島その他、両国へ附属する島はない」と回答したのも自然な成りゆきであった。

 結局、鳥取藩からの回答で「竹島は因幡・伯耆の付属ではない」「松島・竹島その他、両国へ付属する島はない」とされたことが決め手になり、幕府はついに竹島の放棄を決定し、それを朝鮮国へ伝えて「竹島一件」は落着した。朝鮮への書簡では松島(独島)にふれなかったが、幕府は領主のいない松島も日本領でないと判断したことは明らかである。江戸時代、領主のいない日本の領土はあり得なかった。
 外務省はホームページで独島を「固有領土」とする理由に上記の2点のみをあげたが、それらは上に論証したように、いずれも根拠が薄弱である。さらに特筆すべきは、日本には独島を日本領とする江戸時代の公文書や官撰地図は存在しないのである。

 3.明治政府は独島を日本の領土外と宣言

 日本では専門家以外ほとんど知られていないが、明治新政府は朝鮮を内探するため、1869年に外務省高官を朝鮮へ派遣した。翌年、高官は報告書「朝鮮国交際始末内探書」を提出し、そのなかで「竹島松島朝鮮付属に相成候始末」という一項をもうけて、松島・竹島が朝鮮領であることを明確にした。これは単なる報告書にすぎないが、その内容から明らかなように、外務省が江戸幕府の「竹島一件」のてん末を継承し、独島を朝鮮領と認識したことを示した点で重要である。太政官指令書の存在

 それよりも重要なのは、松島・竹島を版図外とした太政官指令である。指令のきっかけは新政府の地籍編纂事業だった。新政府は日本各地の地籍を編纂するにあたり、松島・竹島が日本領かどうかの検討を行った。その際「版図の取捨は国家の重大事」との考えから慎重に江戸時代の「竹島一件」などを吟味した。

 その結果、やはり松島・竹島は日本領でないとの結論をくだし、1877(明治10)年、明治政府の最高機関である太政官は「日本海内竹島外一島を版図外とする」との指令をだした。この画期的な太政官指令書を今の外務省は決して明らかにしようとしないが、その姿勢は情報隠しに等しいといえよう。太政官指令書には付属文書「島根県伺」があるが、そこにおいて独島は「外一島」として、こう記述された。

<太政類典 第二編 第九十六巻>
 「次に一島あり。松島と呼ぶ。周回三町。竹島と同一の船路にある。隠岐をへだてる八十里。竹木は希で、魚獣を産する」

 この文書にて松島は竹島の付属島のように書かれたが、このように両島は一対という意識が日本では強かったので、明治政府は竹島とともに松島も版図外としたのである。元来、松島には松の木どころか樹木が1本もないにもかかわらず松島と呼ばれたのも竹島と一対という認識のためである。日露戦争中強引に編入

 さて、「島根県伺」における松島の位置は、隠岐から八十里、竹島から四十里とされた。距離は実際より遠めだが、この距離の記述をはじめ付属文書の内容は、実際に渡海事業をおこなった大谷家などの文書や地図が元になっているだけに、松島が今日の独島をさすことは間違いない。

 明治政府はそれらの史料や、朝鮮との書簡などを精査して、竹島および外一島、すなわち松島・竹島を一対にして朝鮮領と判断し、日本の領土外とする指令を布告したのだった。この重要な太政官指令について外務省はホームページをはじめ全ての文書で沈黙を守っている。

 さらに重要な史実がある。明治政府は、水路部が日本や隣国の沿岸を測量し、近代国家として日本の領域を画定して水路誌を発刊したが、その際に独島を「リアンコールト列岩」の名で『日本水路誌』でなく『朝鮮水路誌』(1894)に含めたのである。

 この事実から国境画定機関である水路部は日露戦争以前に独島を朝鮮領と認識していたのは明らかである。これについても外務省のホームページは一切沈黙している。外務省はこうした数々のアキレス腱をかかえたまま「竹島は日本の固有領土」との主張をくり返しているが、これは重大な情報操作である。

 4.帝国主義的な独島奪取

 以上のように、明治政府は独島を韓国領と判断しておきながら、1905年、突如として独島を日本領へ編入することを閣議決定した。その背景には、日露戦争という「時局なればこそ、その領土編入を急要とするなり。望楼を建築し、無線もしくは海底電信を設置せば敵艦監視上きわめて届竟ならずや」とする外務省政務局長・山座円次郎の判断などが推進力になったのである。

 実際、同島周辺は軍事的に重要な海域であった。日本が独島を編入したわずか3か月後、ロシアとの間で歴史的な「日本海海戦」が沖ノ島の沖合から同島近海で戦われ、日本は圧勝する。この海戦は独島の戦略的重要性をはからずも証明したが、それほど重要な独島を、日本はノドから手が出るほど欲しかったのである。

 そのため、日本政府は日露戦争の最中である1905年2月、隠岐の商人である中井養三郎から内務・外務・農務の三省に提出された「リャンコ島領土編入並に貸下願」を認める形でリャンコ島(独島)の奪取を閣議決定した。その際、「版図の取捨は国家の重大事」という内務省の見解にもかかわらず、その決定を官報に公示しなかった。

 わずかに島根県が独島を新発見地であるかのように装って、島根県告示第四十号で島の位置のみを明示し「竹島と称し、自今本県所属隠岐島司の所管と定めらる」と布告した。これは地方新聞に報じられたが、そこでも旧島名の記述もなければ、領土編入という言葉すらなかった。

 領土編入が太政官指令に反するのみならず、他国の領土を自国へ編入するのは明らかに国際法に反するだけに、内密裡に処理されたようである。秘密処理の結果、日本海海戦の勝利を伝える新聞や、はなはだしくは政府の官報すら新名称である「竹島」の名を使用せずに「リアンコルド岩」という外国名を用いたほどである。

 一方、閣議で領土編入の提案部署であった内務省が、かつて独島を「韓国領地の疑いある」と判断していたにもかかわらず、明治政府は小笠原諸島編入の場合に行ったような関係国との協議を行わなかった。同島の場合、日本政府は関係国の米・英両国と何度も協議し、両国の了解を得て同島を統治することを欧米12 か国に通告したのであった。これは欧米列強や国際法を重視した措置であった。国際法に対する取り組みは独島の場合と大違いであった。

 両者の違いは当時の国際法の性格にある。現在と違ってその当時の国際法は基本的に欧米列強間における利害調整のための道具であった。そのため、侵略戦争すら合法であった。そうした弱肉強食の時代にあって、列強国は相手が弱小国とみるや、国際法など無視してかかるのが常であった。 たとえば1905年8月の第2次日英同盟などがそのいい例である。この条約は、前年の日韓議定書に明らかに反して結ばれたが、韓国の抗議に対し日英両国はなんらの措置をとらず「イグノヲア」、つまり無視を決めこんだのである。当時は欧米列強のそのような帝国主義的手法が公然とまかりとおったのである。

 日本は、そのような手法の延長で韓国を保護国とする乙巳条約(1905)を強要し、やがては韓国全体を併合したのであった。これが韓国に対し、甚大な被害と苦難をもたらしたことはいうまでもない。先日、大統領は特別談話で「独島は日本の韓半島奪取の過程で最初に併呑された歴史の地」と語ったが、今や、独島は日本による過去の侵略の象徴的存在となった感がある。

 以上のように、独島はもともと日本の固有領土ではなかったし、明治政府は韓国領と判断し、日本の領土外と宣言した島であった。それを日露戦争という「時局なればこそ」戦略的に重要な島であると判断し、こっそり日本領へ編入したのであった。日本はそうした経緯を重く受けとめ、独島をふたたび領土外であると宣言するのが妥当である。

 おことわりであるが、本稿では紙面の制約から資料の紹介などは割愛した。また論証が必ずしも十分でない部分は筆者のホームページ、下記「半月城通信」を参照されたい。

(半月城通信) http://www.han.org/a/half-moon/
          http://www.han.org/a/half-moon/hm120.html



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