2010年2月25日木曜日

半月 安龍福が独島領有を確かなものに

外務省パンフレットへの批判5、(1) 2008/ 4/22 20:55 [ No.16488 / 16494 ]

投稿者 : ban_wol_seong


5.安龍福の渡日事件

  外務省のパンフレットは、韓国で英雄とされる安龍福の拉致事件(第1次渡日)について、こう記しました。
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  韓国側の文献によれば、安龍福は、来日した際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取ったと供述したとされています。
  しかし、日本側の文献によれば、安龍福が1693年と1696年に来日した等の記録はありますが、韓国側が主張するような書契を安龍福に与えたという記録はありません・・・
  その供述には、上記に限らず事実に見合わないものが数多く見られますが、それらが、韓国側により竹島の領有権の根拠の一つとして引用されてきています。
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  ここでも外務省は「韓国側」という曖昧な用語を使用していますが、韓国政府の公式書簡に「安龍福は・・・竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得た」などとする主張は痕跡もありません(注1)。外務省は韓国政府の公式見解をまったく確認せず、またもや幻の主張に振りまわされているようです。
  韓国政府がそのような主張をしなかったのは当然です。安龍福と同時代の歴史を記した最も重要な官撰史書『粛宗実録』によれば、朝廷は安龍福がもらったという「書契」なるものを疑問視していたのでした。同書は、朝鮮側の「欝陵島争界」第二次交渉責任者である兪集一の見解をこう記しました。
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  近年、臣が東莱にて使者を務めた時に安龍福を尋問したところ、言うには「伯耆州でもらった銀貨と文書を対馬島の人が奪った」としたが、今回、彼が伯耆州に呈文したことでは「対馬島の人が2千金で私を贖って本国へ送ると嘘をつき、その銀は本国で受けるとした」としたが、前後の話がとても食いちがっている。また対馬島の人は元々銀で贖うことがなく、壬戌約條も秘密なのに、安龍福がどうやって聞くことができるだろうか?
  また、倭人は皆 竹島が伯耆州の食邑としているのに、安龍福が一度話したからといって、朝鮮領とすぐには言わないだろうし、安龍福の呈文では欝陵島は本国の地であると何度も述べたが、倭人と問答した文書や安龍福を送るとした文書には一切ふれられていない。このような事情はとても疑わしいので、再び調査して実情がわかった後に罪を論じるのが適当である(粛宗22(1696)年10月23日条)。
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  この意見はもっともです。突然拉致された、外交使節でもない一漁夫が連行された先でいくら竹島(欝陵島)は朝鮮の領土だと主張したところで、まともに取りあってもらえないことは誰しも考えそうなことです。
  朝鮮で第1次交渉責任者であった洪重夏も安龍福の話をまったく信用しませんでした。さらに、当時の最高権力者である領府事の南九萬も同様であり、こう述べました。
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  安龍福が癸酉(1693)年に欝陵島へ行ったが、倭人に捕まり、伯耆州に入ったところ、本州で欝陵島は永久に朝鮮に属するとする公文を作ってやり、贈り物も多かったが、対馬島を経て来る途中で公文と贈り物をすべて対馬島の人に奪われたというが、その話を必ずしも信じられると感じはしなかった(粛宗22(1696)年10月13日条)。
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  このように少なくとも『粛宗実録』は安龍福の供述をそのまま載せても、それをそのまま真実と受けとめたのではなく、その真偽を見きわめた経過なども記したのでした。
  といっても、朝廷はかれの供述を完全に検証できるわけではありません。事件の舞台がほとんど日本だったので、検証には限界があります。真偽の見きわめが困難な供述に対して『粛宗実録』はコメントも加えずにそのまま載せました。そのような記事は単なる参考程度の意味しかありません。
  したがって、私人である安龍福個人がどのような発言をしようが、それ自体だけではあまり意味がありません。その発言が当時の社会や後世にどう影響したのかが重要です。

  そうした基本的なことを素通りして、外務省のパンフレットは、当時の朝廷から虚偽とされた安龍福の上記の供述を特筆大書しましたが本末転倒です。そもそも、外務省は『粛宗実録』をきちんと読んだのでしょうか? 素朴な疑問がわきます。
(つづく)


外務省パンフレットへの批判5、(2) 2008/ 4/22 20:56 [ No.16489 / 16494 ]

投稿者 : ban_wol_seong


  外務省のパンフレットは、安龍福が虚偽の供述をおこなったもう一つの例として、第二次渡日事件をこう記しました。
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  さらに、韓国側の文献によれば、安龍福は、1696年の来日の際に鬱陵島に多数の日本人がいた旨述べたとされています。しかし、この来日は、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後のことであり、当時、大谷・村川両家はいずれも同島に渡航していませんでした。
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  安龍福のこの供述に対し『粛宗実録』は何のコメントを加えずに記述したのですが、韓国政府はこれをほぼ事実と認める旨の書簡を日本へ送りました。日韓どちらの主張が正しいのか、ささいな史実の追求ですが、両国政府のメンツにかかわる問題だけに、それなりの検証を要します。

  日本政府の主張ですが、たしかに幕府が日本人の竹島(欝陵島)への渡航を禁じたのは、安龍福の渡日前である1月でした。また、鳥取藩が「竹島渡海免許」を返納したのは翌月でした。しかし、禁止されたといっても、その命令は大谷・村川家にすぐには伝えられませんでした。
  渡海禁止令の伝達は、鳥取藩主が「御帰国のうえでもって右の(禁止令の)ことを市兵衛、甚吉へ命じるようにとの(老中)大久保加賀守の御指図により、今日制禁の旨を命じられました」とされました(『御用人日記』1696.8.1)。
  すなわち、大谷・村川両家に渡海禁止令が伝えられたのは8月になってからでした。したがって、春の時点で両家は禁止令を知らず、例年どおり渡海した可能性があります。史料の上からは、外務省がいうように「当時、大谷・村川両家はいずれも同島に渡航していませんでした」とは決して断言できません。

  ただ、いろいろな状況から考えると 1696年の渡海はなかったものと思われるが、その前年の1695年なら、あるいは安龍福は竹島で日本人に出会った可能性があるとする研究もあります(注2)。
  その場合、安龍福の第2次渡日時における供述は大筋で認められることになります。第2次渡日事件に関して田保橋潔は、安龍福の供述を「徒(いたずら)に大言を弄するの嫌いはあるが、大体に於て事実と信ぜられる」と評価しました(注3)。

  いずれにせよ、安龍福の供述において注意すべきは、史実と、かれ独特の大言壮語とをよく見きわめることです。その際、些末なことにとらわれず、事件全体の本質を把握することが何よりも重要です。それを抜書きすると下記のとおりです。

(1)安龍福は 1696年に欝陵島から竹島=独島を経由して来日したことにより、竹島=独島の位置などを当時の水準でほぼ正しく認識していた。
(2)かれは、欝陵島は竹島であり、竹島=独島は子山島で日本で松島と呼ばれていると明確に認識していた。
(3)両島は朝鮮の江原道に属する朝鮮領であることを隠岐国などへ訴えた。

  これらの重要な史実は、2005年に発見された村上家古文書により確認されました。村上家古文書、正しくは『元禄九丙子年 朝鮮舟着岸一巻之覚書』ですが、これは幕府の代官手代により書かれた公文書なので、第一級の資料価値を有します。
  ところが、外務省のパンフレットはそれには一言半句もふれませんでした。ここの章でも、同省にとって都合の悪い資料や不利な資料は一切無視するという方針が徹底しているようです。
  その一方で同省は『粛宗実録』を拾い読みしてか、あるいは意図的にか、時には『粛宗実録』の意図を曲解してパンフレットを作成したようです。

(注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両政府の見解」『レファレンス』2002.6月号
(注2)朴炳渉『安龍福事件に対する検証』韓国海洋水産開発院
 (近刊予定、日本語および韓国語併記、販売は韓国の政府刊行物販売センター)
(注3)田保橋潔「鬱陵島その発見と領有」『青丘學叢』第3号、1931、P20

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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