2009年2月15日日曜日

世界の領土・境界紛争と国際裁判

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世界の領土・境界紛争と国際裁判

外交交渉と司法的解決の採用を目指して

金子利喜男

 



第20章 先占と実効的支配

―竹島と尖閣諸島との関連で―



 係争諸島と先占 わが国をめぐる領土問題については、先占は、とくに竹島と尖閣諸島の問題に関係する。
北方領土とことなり、日本は、中国とも、韓国とも、これらの係争諸島にかんする条約をむすんでこなかったからであ
る。

1.尖閣諸島 わが国勢府の主張によれば、1885年からの調査で、この諸島に清国の支配がおよんでいないこ
とを確認し、1895年に現地に標杭を建設して日本領としたとのことであるが、中国側にあれば、これは昔から中国領
土で、はやくも明代(1366―1644年)には、中国の海上防衛区域にふくまれて、中国の台湾に付属していたという
(98―99頁)。

2.竹島問題 わが国の主張によれば、江戸幕府は、1696年に鬱陵島を放棄したが、竹島をば日本領として取
りあつかい、1905年に竹島を島根県隠岐島司の所管にいれ、第2次大戦の終了するまで、実効的な支配を継続して
きたとのことであるが、韓国側によれば、同国は、新羅時代(4世紀半ば―935年)から、竹島を鬱陵島に付属する島
として支配してきており、それは自国領であるという。

2.千島列島の場合は、その係争諸島にかんする国際的な文書がいくつかある。それゆえ、千島の先占は、歴史的
には興味あるにしても、国際法上それは決定的な意味をもたず、むしろ条約の解釈が重用である。



 先占の要件 つぎが、先占の要件とみられており、これについて、根本的な反対説はない。

第1に、それは国家によっておこなわれなければならないということ。その意志を表示しなければならない。

第2に、先占される土地は、無主の地であること。ある土地に人がすんでいても、その土地が、どの国家にも属して
いないときは、無主の土地とみられてきたが、しかし、そのような土地は、民族自決権と先住権の要求の高揚げとと
もに、古典的な理論に服しなくなった。

第3に、先占が実効的であることが必要である。先占を尊重させる権力が必要である。無人島の場合、ときどきみま
わって国家機関が秩序を維持できれば、それで十分である。

 国際法の父といわれるグロチウス(1583―1645年)藻、「意志行為だけでは不十分であって、先占が明らかに認め
られ得る外部的行為がなければならない」(1)と述べている(田だし、これは海の先占について)。19世紀の後半に
は、先占が実効的でならなければならないことは確立したとみられている。

 20世紀中の判例 先占に関係するのは、とりわけ、つぎのような判例である。(年号は、判決のあった年)

①1904年 ギアナ境界事件 あたらしい貿易経路を発見しただけでは、その私人の本国が、その土地にたいする主
権を取得したことにはならない、と判示された。

②1931年 クリッパートン島事件 島も先占を主張するメキシコは、その権利を実効的に行使したことを証明しなけれ
ばならない、との要件が強調された。

③1933年 グリーンランドの法的事件 他国が、優越的な主張を立証できないときには、時刻の主権の現実的行使
はわずかなものでよいとし、先占の要件を明確にした。

④1951年 マンキエ・エクレオ諸島事件 英国は「古来の権原」を、フランスは「固有の権原」を主張。ICJは、実効的
占有を重視し、係争諸島は英国領であるとした。

⑤1928年 パルマス島事件 ある国家が、当初は実効的に支配していたとしても、いつのまにかその土地を平穏か
つ継続的に支配しているなら、後者が優越する。





38 クリッパートン島事件



(仲裁裁判、当事国はメキシコとフランス、仲裁付託契約は1909年3月2日、判決は1931年1月28日、その間21年
10カ月、領土紛争、159~165頁)



 本件は、とくに尖閣列島の問題で参考になりうる。



事実 1858年秋に、フランス政府代理人の海軍大尉は、クリッパートン島沖を航行中、海軍大臣の命令にしたがっ
て、同島の主権は、この日からナポレオン3世とその後継者に属すると布告した。航行中、詳細な地図がつくられ、
小艇の乗組員が上陸したが、船は主権の表示をのこさず離島した。フランスは、ハワイ政府にたいし、同海軍大尉の
任務の終了を通告した。ホノルルの新聞は、クリッパートンにたいするフランス主権はすでに公布されている。という
宣言文が公表された。そのご1887年まで、明白な主権行為は、フランス側からも、他の諸国側からもおこなわれて
いない。1897年、フランス太平洋海軍艦隊長は、グアノを採掘している3人をクリッパー島で発見したが、かれらのア
メリカ国旗の掲揚について、フランスは抗議した。しかし、同島を自国領とかんがえていたというメキシコは、砲艦を派
遣して、メキシコ国旗をかかげた。結局、両国は1909年その帰属問題を裁判で解決することに合意した。判決は、
1931年にでた。



 判決 メキシコによれば、この島は、スペイン海軍によって発見されていたのであって、当時有効であった法によ
りスペインに属し、1836年からは、同国の承継国として、メキシコに属していたという。しかし、発見がスペイン人によ
りおこなわれたとみとめるにせよ、メキシコの主張が根拠づけられるためには、スペインが国家としての立場で、同島
を自国の領土に編入する権利をもつだけでなく、その権利を実効的に行使したことを証明する必要があろう。しかし、
それはまったくしめされなかった。ある領土が完全に無人の地であるという事実によって、そこに先占国家があらわ
れた最初のときから同国が絶対的に使用できるときは、その時点から占有の実行は完成されたとみられなければな
らない。これらの前提から、クリッパートン島は、1858年11月17日、フランスにより合法的に取得されたことになる。
同国が、あとになってその権利を遺棄(derelictio)によりうしなったと認定する理由はない。なぜなら、同島を放棄す
る意志をもったことはないからである。



 解説 1)わが国の領土問題の関連で注目されるのは、フランスが同島を放棄する意志をもったことはないから、
あとになってその権利を遺棄する意志があったとすれば、それは放棄につながるということを前提にしている。

2)本件は、ある面で、尖閣諸島問題とにている。中国は、明朝が倭寇の進入に抵抗するため、1556年に胡宗憲を
総督に任じて、沿海各省で軍事的責任をおわせ、尖閣諸島が中国の防衛範囲にはいっていたと主張するのにたい
し、日本側は、1885年の調査で、同諸島が清国に所属する証拠がないことを確認して日本領に編入したとし、中華
民国政府も、中華人民共和国政府も、1970年にはじめて同書島の領有権を問題にしたと主張した。

3)実効的先占 本件は、とりわけ、パルマス島事件〔266―269頁〕と東部グリーンランドの法的地位事件〔163―
167頁〕とならんで、先占は実効的でなければならないとする判例である。



39マンキエ・エクレオ諸島事件



(国際司法裁判所、当事国は英国とフランス、付託は1951年12月29日判決は1953年11月17日、その間1年11カ月
余、高野判例、1965年、99―110頁)

古来の権原;固有の権原;占有に直説する証拠;刑事裁判権の行使〔マンキエとエクレオは、英領チャンネル諸島の
ひとつであるジャシー島とフランス本土とのあいだにある〕

 事実 英国とフランスは、付託合意にもとづいて、訴えを提起し、それぞれ係争諸島にたいする自国の権原を主
張した。英国は、古来の権原(ancient title)の由来をとき、マンキエとエクレオ諸島の自国領有を主張する。つまり、
1066年の征服1204年の占領、そのごの諸条約、1471年の休戦協定を引用する。他方フランス側も、固有の権原
(titre originel)の由来をとく。すなわち、ノルマンディ公は、フランス王の家臣であったこと、1202年のフランス裁判所
の判決により、英国王ジョンは、フランス王からの封地がすべて没収されたこと等々。

 判決 海峡諸島をふくむノルマンディ画、1066年から1204年まで、ノルマンディ公の資格における英国王により
保管されたという事実にかんがみて、英国の見解に有利な推定の根拠がある。たといフランス王が、海峡諸島につ
いて、固有の封建的権原を有していたにせよ、それは1204年以降の諸事件の結果として、失効してしまったにちが
いない。1202年のフランスの判決については、海峡諸島に着き、判決が執行されることがなかった。フランス王が、
海峡諸島の占有に失敗したからである。しかし、決定的な重要性をもつのは、中世紀の事件からひきだせるような推
定でなく、両島の占有に直接的に関係する証拠である。英国が採用した事実のうち、とくに司法権、地方行政権と立
法権の行使にかんするものに証拠能力をみとめる。ジャシー王立裁判所は、ほぼ100年間、エクレオで刑事裁判権を
行使してきた。



 解説 モーパサンの短編「ジュールおじさん」のなかのジャシー行きがおもいだされる、この作品は、1883年の
夏、新聞に発表されたものであるが、「ジャシー行きは、貧乏な人びとにとっては、旅行の理想である。…外国へいく
ことになる。この小島は英国の領土だ」と書いている。ところで、本件は国際司法裁判所の領土問題にかんする最初
の判決であるだけでなく、「古来の権原」とか「固有の権原」のことばを使用していることでも注目される。日ロ中韓
は、多かれ少なかれ、本件中の英仏とにた態度をとって、争いあっているのである。この判例の重要な点は、実効的
占有を重視したことである。しかし、それにしても、事実上の支配が、その地域が当然その支配国の領土であること
を意味するものでないことにも注意しなければならない。たとえば、占領は、占領地域が当然その占領国の領土にな
ることを意味しない。また、北方4島については、ロシアよりは、むしろ日本に固有の権原があろう。しかしまた領土
は、いろいろな自由で変更するので、過去に固有の権原をもっていたとしても、それが現在も当然その国の領土であ
るという証明にもならない。問題は、複合的で、総合的な判断が必要である。本件が、日ロ間の領土問題で、余り援
用価値がないのは、そもそも北方領土問題においては、先占の実効的支配でなくて、現行条約の解釈が問題だか
らである。地方、この事件は、竹島問題を考察するうえでは、かなり参考になる。太壽堂鼎・京都大学教授は、本件
を引用し、「決め手となるのは、信憑性が疑われる歴史的事実に基づく根拠ではなくて、実効的占有の有無であろ
う」と述べている。(そして、わが国が竹島問題では優位であるとみる。ケース、112頁)



(1)一又正雄『戦争と平和の法』、第1巻、グロチウス、1996年の復刻版、酒井書店、307頁











第21章 島にかんする判例



さて、島の領有権問題について、その全体像を把握するため、島にかんする20世紀中の判例を一瞥しよう。千島列
島、尖閣諸島、竹島問題を視野にいれ、つぎの8つの事例はすでに説明した。その要点を復習すれば:

①1903年 アラスカ国境事件 本件では、どこに「ポートランド海峡」が位置するかで、島の帰属先が左右された。
(右上の図を参照)

②1914年 チモール島事件 交渉当時の意図が重視され、条約発効後のべつの主張は放棄した土地の要求のむし
かえしであると非難された。

③1928年 パルマス島事件 本件では、領有権請求のためには、権原の有効な取得を証明するだけでは不十分で
あり、国家権力の平穏かつ継続的表示が必要である、と判示された。

④1931年 クリッパートン島事件 ある国家が、ある土地を最初から絶対的に使用できる場合に、放棄の意志がなけ
れば、占有は実行されたみる。

⑤1933年 カステロリゾ島とアナトリア海岸領海境界事件この紛争について、仲裁契約がむすばれたが、提訴後の
交渉成功で、訴訟は中止された。

⑥1933年 グリーンランドの法的地位事件 グリーンランドにたいしては、1931年までデンマーク以外から主権の主
張がなく、ノルウェーは、それを争ってならない、とされた。

⑦1951年 マンキエ・エクレオ諸島事件 裁判所は、重用なのは、中世の諸事件からの推定でないこと、国家の実
効的支配が重要であるむね判示した。

⑧1978年 エーゲ海事件 裁判所の判例は、外交交渉と司法的解決が併用されたさまざまの実例を提供している。
(1)以上の判例は、すでに紹介したので、つぎの4つの判例を検討するが、わが国のかかえる領土問題を解明・解
決のための手がかりがあるだろうか?まずは各事件の要点を紹介する。

⑨1909年 グリスバダルナ事件 現実に存在し、かつ長期にわたった事態は、可能な限り変更しない、というのが確
立した国際法の規則であると、仲裁裁判所は判示した。

⑩1937年 ビーグル海峡事件 係争海峡のコースは、交渉当事国には議論すら必要のないほど明白であったにち
がいない。したがって、裁判所は、そのことを考慮する。

⑪1992年 領土・島・海洋境界事件 3国にかこまれたフォンセカ湾には、利益共同体が存在し、湾の閉鎖線には3
国とも存在すると判示された。

これらの判例註には、前述の先占と放棄の法理を補強するものがあっても、それを否定するものはない。ただ、きわ
だっているのは、「領土・島・海洋境界事件」である。これはフォンカセ湾に岸をもつ3国が湾の閉鎖線にも存在すると
いう奇想天外な、しかし衡平の原則には、かなっているような判決である。本件は、おなじく3国の複雑な利害関係
が調整された1977年の大陸棚国境画定事件とあわせて考えると興味深い。この2つの事件では、それぞれ3国の
利害関係が絶妙に調整されたようにみえる。なお、2001年3月現在、世界市民法廷に付託されている事件は、北方
4島、西■諸島、南沙諸島、フォークランド島および竹島にかんするものである。





40グリスバダルナ事件



(仲裁裁判、当事国はノルウェーとスウェーデン、付託契約は1908年3月14日、判決は1909年10月23日、その間1
年7カ月余、領土紛争、49―61頁)



















本件では、講和という事実のみによって、問題の海の領域が分割されたとの判示がとくに重要である。フィヨルド;砂
州;浅瀬;漁業;長期の事態

 事実 (1)合同委員会 本件は、スウェーデン・ノルウェー国境の南端の峡湾イデフィヨルドの湾口から公海まで
の境界紛争で、問題の境界線は、1661年の両国間の国境画定条約によって定められていたが、その数カ所が不明
確なため、1897年に設置された両国の合同委員会が、国境画定の提案をまとめた。提案によると、全委員の意見
は、イデフィヨルド最奥部から第17点までは一致、しかし、第18点以遠の公海までの境界線については、合意をみ
ず、両国の委員は、どちら側も、グリスバダルナの砂州と付近の浅瀬を自国の領海にふくめていた。この付近の海域
は、エビ漁業の好漁場であった。

(2)仲裁付託契約 結局、1904年、双方は問題を仲裁裁判に付託することに合意し、1908年3月14日、とりわけ、
つぎの次項をふくむ仲裁付託契約をむすんだ。(ノルウェーは、1814年いらい、スウェーデンと同君連合であったが、
1905年に分離した。)

第1条3名からなる仲裁裁判所は、両国から各1名、のこる1名の裁判長はオランダ女王が任命する。

第2条 仲裁裁判所は、第18点から公海までの境界を決定する。

第3条 仲裁裁判所は、1661年の国境画定条約により、境界線が画定されているとみなされるべきかについて、決
定しなければならない。





 判決 仲裁裁判所は、1909年10月23日、とりわけ、つぎのむね判示した。

1)第19点について、本裁判所の審理段階での両当事者の主張は一致した。

2)両当事国は、その両側にある島や岩礁(いつも海面下に没していないもの)をむすぶ中間線によって分割するとい
う規則を採用している。当事国の意見によれば、これが、1661年条約においてA点(イデフィヨルドのほぼ出口にあた
る。スウェーデン領コスター島ノルウェー領チスラー島をむすぶ線のほぼ中点)の内側で採用された規則であったとさ
れる。そのような規則の採用は、現在これを適用する場合、条約当時に存在した状態を考慮しなければならない。ハ
イエフルエル岩礁は、当時は海面上にあらわれていなかったので、ヘヤェクヌブが基準点として採用されるべきであ
る。このようにして、第20点も確定された。

3)のこる問題は、第20点以遠の公海にたっするまでの境界線。1658年の講和という事実のみによって、領域が自
動的に分割された。その自動的な分割線を確認するには、その当時有効であった法原則に依拠しなければならな
い。1658年の自動的分割線の決定―それは、こんにちにおける問題の境界線の画定とおなじ―は、海岸線の一般
的方向にたいし垂直線をひくことである。が、当事国は、重要な州をよこぎるように境界線がひかれることが不適当と
の意見であるから、第20点から、真西より南へ19度かたむく方向にひかれるべきである。

4)グリスバダルナをスウェーデンに帰属させる境界画定は、とくに、つぎの事実状態により支持される。グリスバダ
ルナの浅瀬におけるエビ漁業は、ノルウェー人よりもスウェーデン人によって、おこなわれてきた。現実に存在し、か
つ長期にわたって存在してきた事態は、可能なかぎり変更しない、というのが確立した国際法の規則である。

5)ショッテグルンデをノルウェーに帰属させることは、以下の重要な事実状態により十分に支持される。スウェーデン
人が長期間に、かつ広範囲に、より多数ショッテグルンデで漁業に従事してきたと推定されるが、ノルウェー人は同
地域で排斥されなかっただけでなく、グリスバダルナよりショッテグルンデにおいて、いっそう有効に、ほぼ継続的に
エビ漁業に従事してきたことが当事者により確信されている。



 解説 わが国の領土問題の関連でみると、本件で注目されるのは、とりわけ、つぎの点である。

1)問題付託後、それは早期に解決(1年7カ月)された。

2)ノルウェーは、1658年の講和という事実のみによって、問題の海の領域が自動的に両国のあいだで分割されたと
主張する。その主張は、スウェーデンによっても排斥されていないとして、裁判所は、その意見を支持し、この意見
は、当時の、また、現代の国際法の基本原則に一致すると判示した。

3)国境線画定のさい、現状が尊重されたこと。この判決での重要なポイントのひとつは、海の領域の境界画定のさ
い、現実に存在しかつ長期にわたって存続してきた事実状態は最大尊重することが、確立した国際法原則である、
との判示である。現実に存在し、かつ長期にわたり存続してきた事実状態や権益は、そのごのいろいろな判決でも
考慮され、等距離法式は機械的には適用されていない。北海大陸棚事件におけるジェサップ裁判官の個別意見(領
土紛争、60―61頁)、チュニジア・リビア事件(183―186頁)、グリーンランドとヤン・マイエン間海域境界事件(191―
194頁)などでは、同時に衡平の原則に注意を喚起している。衡平の原則というのは、境界についてわかりやすくい
えば、ある当事者が、ある部分で相手国より多く利益をえる場合、他の部分では相手国のほうの利益をより多く考慮
することである。北方領土の貝殻島では、わが国の国民が、同島について、特別の権益をうけてきた。それゆえ、本
判決のプリズムからみるなら、将来、歯舞群島が、日本領あるいはアイヌ自治区とされるかどうかわからないが、い
ずれにせよ、最低限度そのときの貝殻島の状況が尊重されるべきであるということになろう。

4)この仲裁判決は、隣接する2国間の境界画定にかんする興味深い先例である。判決によれば、境界線は、海岸
線の一般的方向にたいして、垂直線をひくことによって定められなければならず、その場合、境界線の両側の海岸線
の方向を考慮すべきであるとする。しかし、このような規則は、そのご歴史の流れにそい、修正されていく。一国が独
善的に行動してならない理由は、このような法の流動的な形成過程にもみいだされる。

4)本件で、両係争国は、エビの好漁場を自国の要求区域にふくめた。このように、日ロ中韓の各国は、まず国際法
の規則を考察する以前に、自国の欲望・要求をおしとおそうとの態度がさきだちすぎていないであろうか。この面で
は、世界の多くの国が、まずは自国の利益を考慮して、それを確保する根拠をさがしだそうとし、場合によっては理屈
をこねる。そのことじたい、多くの人間の不可避的な性向に関係しているであろうから、それほど非難できないと譲歩
しても、批判されるべきは、権利の侵害が問題になっているにもかかわらず、紛争国が、長年にわたり外交交渉で問
題を解決せず、また他の平和的解決方法も使用しないことである。





41 クレタ島とサモス島の灯台の事件



(仲裁裁判、常設国際司法裁判所、当事国はフランスとギリシア、付託契約は1936年8月28日、提訴は同年10月
28日、判決は1937年10月8日、提訴から判決まで11カ月余、横田、87―94,145―153頁。宮崎、194―195頁)









 事実 問題は、旧トルコ領土内の灯台の特許契約にかんする。この契約により、フランスの会社は、19世紀か
ら地中海の旧トルコ領にある灯台の建設や維持にかかわってきた。1913年4月1日に、同社とトルコ政府は、更新契
約をむすんだ。しかし、これは、バルカン戦争のまっさいちゅうで、クレタとサモスの両島をふくむトルコの島々が、ギリ
シアに占領されていたときであったので、ギリシアは、常設国際司法裁判所で、トルコとフランス会社間の契約の効
力を争った。しかし、1934年3月17日、同裁は、「ギリシア政府にたいして有効である」と判決した。〔くわしくは、横田
Ⅱ、87―94頁〕。そのご判決の適用について、両国間に争いがおこった。つまり、判決がクレタ島とサモス島の灯台
に適用されるかということである。ギリシア政府は、すでに契約更新まえに、両島がトルコから分離されていたから、
それらの島の灯台は契約外であるとみなして、ギリシアは、ふたたび事件を常設国際司法裁判所に付託した。



 判決 1)ギリシアの主張を棄却 ギリシアの主張によれば、クレタ島とサモス島は、広範な自治をもっていたか
ら、1913年に、トルコがすでにまえから主権をうしなっていたというものである。しかし、1923年のローザンヌ議定書
12の9条は、バルカン戦争後トルコから分離されたすべての領土に適用される。

2)クレタ島 同島は、その自治にもかかわらず、トルコ帝国の一部であった。1913年5月30日の講和条約は、「トル
コ皇帝は、連合国の諸元首にクレタ島を割譲し、かれらのために、同島において有した主権に属するすべての権利と
その他の権利を放棄することを宣言する」と述べている〔第4条〕そのときまで、トルコ皇帝が主権をもっていたことに
ついて、この正式な放棄よりも決定的な証拠を発見することは困難であろう。

3)サモス島 同講和条約で、トルコ皇帝が、多島海における同国のすべての島々にかんする決定を列国に委任する
ことを宣言した後、1914年2月13日に、列強の決定により、サモス島がギリシアに帰属した。



 解説 1)本件の判決では領土の一部が「分離された」(detached)という場合の要件が述べられている。この判
決で、分離ということばは、ひろい自治の場合は、本国政府との「すべての政治的結合が切断され」、本国政府が、
その自治領にかんして「すべての権能をうしなっている」こととされた。

2)わが国の領土問題の関連では、1913年の講和条約のクレタ島放棄条項にかんする判示が注目される。この判
決のプリズムをとおし、対応することばを機械的に代入すれば、つぎのようになる:

 1951年対日講和条約は、日本国は千島列島において有した主権に属するすべての権利とその他の権利を放棄す
るむね宣言すると述べている(第2条)。そのときまで、日本国主権をもっていたことについて、この正式な放棄よりも
決定的な証拠を発見することは困難であろう。

 講和条約は、ふつう戦後処理を最終的に解決するものであるから、それは自然な判断である。本判決も、放棄によ
る島の移転は、講和条約の締結時点で確定したことを前提としている。そのごの一方的判断や一方的な解釈の変
更で、境界が変更することを前提にしていない。占領は、領土の移転をともなうものでない。(戦後の日本占領を想起
されたい)







41  ビーグル海峡事件



(仲裁裁判、当事国はアルゼンチンとチリ、仲裁付託契約は1971年7月22日、判決は1977年2月18日〔前掲書では
4月〕、その間5月6カ月ほど、領土紛争、244―259頁)

 本件は、南米のビーグル海峡の島にかんして生じたものである。

 事実 ビーグル海峡の島にかんする1881年の条約の第3条によれば:

島にかんしては、スターテン島とそれに近接する小さな島々は、アルゼンチン領とする。ビーグル海峡の南方でホー
ン岬にいたるまである全諸島とフェゴ地帯の西方にある諸島は、チリ領とする。争点となったのは、ピクトン、ネヴァ、
レノックス〔上図〕のこの3島が、この「ビーグル海峡の南方」の島々に該当するかである。1971年の夏、英国、チリ、
アルゼンチンのあいだでむすばれた仲裁付託契約は、1902年の一般仲裁裁判条約、裁判の義務化にもとづいてむ
すばれた。仲裁裁判所は、1972年の夏、その所在地をジュネーヴにおき、1977年4月の判決で、係争3島はチリに
属するとし、つぎのむね判示した。



 判決 海峡は、ピクトン島のところで、二手にわかれている。「ビーグル海峡の南方」に係争諸島があるかは、ど
の流れがビーグル海峡かによる。その解決は、1881年条約にもとめられるべきである。他の部分については、くわし
い定義をあたえている交渉者たちが、なぜビーグル海峡については、国境線を定めなかったのかは、同海峡のコー
スは、議論すら必要のないほど明白であったからにちがいない〔参照、北大西洋沿岸漁業事件〕。北琉が海峡内の
さまざまな目的地にいく航海に一般に使用された。探検家ボヴェは、その報告書をグランデ島の南岩の湾で執筆し
たが、かれは同湾をビーグル海峡の終わりであると記述している。1885年のアルゼンチン総督の公式報告書のなか
には、チリのバナー・コーヴ港で夜をすごすと述べられているが、同港はピクトン島の北琉沿いにある。裁判所は、係
争3島が「ビーグル海峡の南方」に位置すると判定し、チリ領と判定する。



 解決 1)議論すら必要のないほどの明白さ わが国が放棄した「千島列島」が、国後と択捉をふくむということ
は、議論すら必要ないほど明白であるだろうか。たぶん、これは、地理的にも、また法的にもそうであろう。むしろ、問
題は、色丹と歯舞群島である。

2)とどのつまりは判決にもとづく ところで、この判決は、1978年1月24日、アルゼンチンにより拒否されたため、紛
争区域に険悪な状況が生じた。この地域の領有に執念をもやす理由のひとつは、この地域が南極大陸にたいする権
利に関係すると両国は、武力不行使協定をむすび、ローマ法王の仲介をうけいれ、ついに1984年に平和友好条約を
むすんだのであるが、ここで注目すべきことは、この平和条約も、ローマ法王の提案も、仲裁判決の効力を前提とし
たうえで、境界画定をはかったことである(3)

5)フォークランド領有問題 日グル海峡の東にあるフォークランドは、アルゼンチンと英国間の係争地であるが、この
紛争は2000年12月、世界市民法廷に国際中立提訴団が提訴した。





42領土・島・海洋境界の紛争にかんする事件



(国際司法裁判所、当事国はエルサルバドル、ホンジュラス、1986年5月24日に付託協定、判決は1992年9月11
日、その間6年3カ月余、国外、95巻1号、1996年、92―119頁)

 本件で裁判所は、苦肉の策か、奇想天外な、しかし衡平の原則には、おそらく、かなっているような判決をだしてい
る。



 事実 1821年、スペイン領グアイテマラ歯、中米共和国連邦として独立したが、1839年に連邦が分裂して、そこ
にエルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアなどが誕生した。そのご1854年に、米合衆国がホンジュラスにエル・テ
ィグレ島の購入を提案したさい、エルサルバドルはこれに抗議し、同時にメアングェリタ島を要求した。フォンセカ湾に
ついても、交渉がおこなわれ、1884年の条約で、エルサルバドルとホンジュラス間の国境画定がなされたが、ホンジ
ュラスは同条約を批准しなかった。他方、1900年には、ニカラグアとホンジュラス間の交渉で、フォンセカ湾内の両国
の境界が画定された。ところが、1916年には、エルサルバドルは、ニカラグアが、合衆国の海軍機との建設をみとめ
た条約は、この湾の共有権の侵害になると主張して、ニカラグアを中米司法裁判所に訴えた。翌1917年の判決は、
フォンセカ湾の水域は、1900年のホンジュラスとニカラグアの分界水域をのぞいて、当該事件の当事国エルサルバド
ルとニカラグアとのあいだでは「共有の状態」にあった、と判示した。ニカラグアは、判決直後に、この判決を拒否する
声明を発表した。エルサルバドルとホンジュラス間で、そのごも国境紛争は続き、1969年には、武力衝突が発生す
るまで悪化したが、結局、1980年に一般平和条約がむすばれ、この条約によって設置された合同国境委員会が、条
約で未確定の陸地の6カ所、それに島と海洋の法的地位を決定することにした。しかし、1985年までの作業は成功
しなかった。そこで、5年の経過後に成果のない場合の国際司法裁判所への付託を定める一般平和条約にもとづ
き、1986年の春に付託協定がむすばれ、5名の特別裁判部に解決をゆだね、同時に、国際司法裁判所の判決を執
行するための境界画定委員会が設置された。

 当事国と訴訟参加国の3者3様の申立

1.エルサルバドル 1)ザカテ・グランデ島とファラロネス諸島をのぞき、フォンセカ湾内のすべての島、とくにメアング
ェラ島とメアングェリタ島にたいし、主権を有する。2)フォンセカ湾外に主権を有するのは、太平洋に直接面している
国のみであり、ホンジュラスは、湾外の海域にたいし主権をもたない。

2.ホンジュラス 1)自国は、メアングェラ島とメアングェリタ島にたいし、主権を有する。2)湾内には、利益共同体
(the community of interests)が存在するが、それは共有(condominium)ではない。3)湾外には、ホンジュラス
も、沿岸の長さに比例して、領海、排他的経済水域、大陸棚を有する。

3.ニカラグア 1)湾内に利益共同体の概念はなく、同概念は、ニカラグアの固有の権利と両立しない。2)フォンセカ
湾には、共有制度は存在しない。

 判決 〔湾と島にかんする部分だけ。陸地の6カ所については割愛〕

1)紛争の対象となっている島は、エル・ティグレ島、メアングェラ島、メアングェリタ島である。

2)エル・ティグレ島について エルサルバドルは、同島が1833年以前は自国に属しており、そのごの同島にホンジ
ュラス当局が存在したのは、この島に避難していたエルサルバドル反政府勢力を逮捕することを条件にみとめたの
であって、それ以降のホンジュラスの同島の占有は、1833年にエルサルバドルが同意した限定的目的を有する許可
にもとづく事実上の占領以外のなにものでもないとする。

3)しかし、この点につきエルサルバドルは、十分な証拠を提出していない。1849年、英国が一時的に同島を占領し
たが、ホンジュラスに返還すると述べたこと、1900年にニカラグアとホンジュラスが国境を画定したさい、同島がホン
ジュラス領とされたことにたいし、エルサルバドルが抗議しなかったこと〔尖閣諸島問題と対比されたい。98―101
頁〕、1917年中米司法裁判所によっても、同島がホンジュラス領とされたこと、等々からかんがえて、それはホンジュ
ラス領である。

4)メアングェラ島とメアングェリタ島について エルサルバドルとホンジュラスは、両島が一体のものであるとし、分割
して取りあつかうことをもとめていない。1884年の条約は、それらをエルサルバドル領と定めたが、ホンジュラス側が
批准しなかった。しかし、そのごエルサルバドルのメアングェラ島における存在は、エルサルバドルが、メアングェラ
島にたいする主権をおこない、そのご実効的占有と支配をおこなってきたという事実は、エルサルバドルを同島にた
いする主権者とみなしうる。

5)海域の地位について 当事国と学説も、フォンセカ湾が歴史的湾〔内水の要件をみたしていなくとも、慣行で内水
とみとめられているもの〕であることに、意見が一致しており、湾内水域は、共同主権の特有の制度に服するもので
ある。その例外として、1917年判決のように、湾内沿岸3カイリ水域は、排他的管轄水域であるが、その3カイリ外側
に沿岸国は、大陸棚も、排他的経済水域も、公海も有しない。湾内水域が、共有の地位にあり、3国の共同主権に
服する内水であるために、閉鎖線には3国とも存在し、ホンジュラスが湾外の海洋にかんして締めだされることはな
い。湾内と湾外をわける基線は、地理的状況から、プンタ・アンパラとプンタ・コシグィナ間の線である。湾外について
は、まず閉鎖線の両端3カイリは、エルサルバドルとニカラグアの排他的管轄水域である。3共同主権者のすべて
が、閉鎖線の外側に領海、大陸棚、排他的経済水域の権原を有するのでなければならない。湾外で、共同主権の
状況をそのままにするか、あるいは3国の区域に分割すべきかは、湾内と同様、3国のきめるところによる。



 解説 1)湾の閉鎖線に、3国が存在するとの、一見し衡平な、だが抽象的、仮想的な概念の判決は、筆者の知
るかぎり、これが最初である。リビア・マルタ事件の判決では、沿岸国が大陸棚をもちうるのは、「その海岸をとおし
て」ということであった。複数の沿岸国を有する湾は、およそ法的制度としての湾たる地位をもちえず、またフォンカセ
湾を歴史的湾と位置づける根拠もないとの反対意見もある。(小田滋裁判官、前掲、国外、116頁)2)いずれにせ
よ、本件も、領域にかんする国際法の灰色の部分において、判決が、いかに当事国の権利義務関係を明確にし、あ
るいは、裁判所がいかに立法的な性格をおびた判決をもくだすかの一端をうかがいしることができる。大陸棚の開発
が可能になり、それにたいする主権的権利の行使がみとめられるや、この制度は、その生成過程において、いろい
ろ複雑な態様にであろう。そのような場合、ましてや一方的な主張がそのまま、つねに国際法の支柱にたっていると
の独善は危険であると、ここでも一言のべておきたい。3)前項の3)についてであるが、米国が尖閣諸島の施政権を
日本に返還することにたいしては、中国がつよく反発した。

 註

(1)ギリシアがトルコ沿岸のほとんどの島を領有しているので、現在も問題が発生している。

(2)1996年には、インドネシアとマレーシアとの首脳会談で、シパダンとリギタン島の領有権問題を国際司法裁判所
にゆだねることで合意した。

(3)横田洋三、前掲、258―259頁


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島の領有と経済水域の境界確定

http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page092.html

   尖閣諸島の領有権問題     「参考資料(1) 論文・書籍02」


有信堂



島の領有と経済水域の境界確定



 はしがき



別的とはいえ、当該の島に関連する条約の有無や、歴史的な権原を根拠にしているかなど、一定程度の類型化は
可能であり、本書では、日本のからむ島の領有争いに関連する典型的な事例を取り上げた。そうしたものとした先ず
挙げられるのは、オランダ領インドネシアと米国領フィリピンの間に浮かぶ孤島パルマス島をめぐって今世紀初めに
争われたオランダ・米国関のパルマス島事件であり、英仏海峡のフランス沖にある英領チャンネル諸島とフランスの
ブルターニュ地方との間の二群島の小島・岩礁であるマンキエ=エクレオの領有が国際司法裁判所で争われたマン
キエ=エクレオ事件である。これらのうちマンキエ=エクレオ事件については比較的多くの研究が日本にはあるの
で、本書では、最後に補章としてパルマス島事件の仲裁判決を紹介し、また、竹島と同じく無人島の事例として、メ
キシコの南西六七〇カイリに浮かぶ無人島の領有をメキシコとフランスが争ったクリッパートン島事件を参考までに取
り上げた。



 なお、歯舞諸島、色丹島、択捉島、国後島のいわゆる北方領土については、日露両国の水域の領界画定に対す
る島の及ぼす影響・効果という問題は議論の対象に上がっておらず、まさに領有そのものが正面から問題なのであ
り、また、無人の尖閣諸島や竹島と異なり、一八五五年の日露通好条約、一八七五年の樺太・千島交換条約、一
九〇五年のポーツマス条約、一九五一年のサンフランス平和条約等の関連する条約があり、問題の性格も交渉の
在り方も異なるので、本書の対象とはしなかった。海洋法の動向を抑え、尖閣諸島及び竹島の領有と海の境界画定
に関わる問題をとりあえず知りたいという読者には、序章を読んだ後直ちに第二章六及び第三章に向かわれることを
お勧めしたい。また、島の領有権問題に関心をもたれる読者は、直ちに第三章に取り組まれるのがよいであろう。



一九九八年九月二三日

             

                                        六甲台の研究室にて

                                      芦 田 健 太 郎





目次



序章  大陸棚制度・漁業水域制度の確立と

         排他的経済水域制度の誕生・・・・・・・・・・・・・・・一

  一 問題の意味   1

  二 一九七七年漁業水域暫定措置法   5

    1 はじめに(5)    2 二〇〇カイリ漁業水域登城に至る海洋法の動向(6)

    3 国際法上の一方的行為(12)  4 日本の一九七七年漁業暫定措置法の国際法的評価 

    5 おわりに(20)

  三 一九九六年排他的経済水域・大陸拿棚法と国連海洋法条約     22

     1 国連海洋法条約の成立(22)   2 拝他的経済水域規定の内実(24)

     3 一九九年拝他的経済水域・大陸棚法(26)



第一章  島と大陸棚境界画定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三三

  一 はじめに   33

  二 第三次国連海洋法会議と島の制度――各国提案   38

  三 若干の国家慣行と島の取り扱い   49

     1 基点として認められる島(完全効果) (49)   2 基点として無視される島(無効果 )(52)   

     3 部分的効果を認められる島(54)   4 領海を制限された島(55)

  四 国際判例と島の取り扱い   58

     1 北海大陸棚事件(59)   2 英仏大陸棚事件(61)

  五 おわりに   70



第二章衡平な境界確定と等距離=特別の事情原則・・・・・・・七三

  一 はじめにーー北海大陸棚事件   73

  二 英仏大陸棚事件仲裁判決   75

    1判決の概要(75)   2 英領シリ-―諸島仏領ウェサン島のもつ効果(86)

  三 チュ二ジア・リビア大陸棚事件判決について   121

    1はじめに(121)  2 紛争の経緯と海底の地形(122)  3 判決主文(124)

四 衡平原則=関連事情の考察における主観性の拡大――国際判例の個別化傾向   158

    1 はじめに(158)   2 リビア・マルタ大陸棚事件(159)   3 メイン湾事件

    サンピエール=ミクロン事件――単一の境界線を求めた事件――(163)

    4 ギニア・ギニアビサウ事件,ヤンマィエン事件――単一の境界線を判示した

    事件(170)   5 若干の評価(178)

  五  国際判例の読み方   179

  六  国連海洋法条約の発効と境界画定―排他的経済水域制度と大陸棚制度の併                
      存・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・185

     1 問題提起(185)   2 日本近海の事例研究(186)



第三章  尖閣諸島・竹島の領有問題と排他的経済水域の画定・・・・・・・・・・ 一九五

  一 はじめに   195

  ニ 尖閣列島問題   196

    1 はじめに   2 中国側の主張とその根拠の検討(196)   3 日本側の主張の検討(215)   

    4 最終的解決までの扱い(222)

  三 竹島問題225

    1 はじめに(225)   2 韓国側の主張とその根拠の検討   3日本側の主張の検討(235)   

    4 最終的解決までの扱い(237)

  四 排他的経済水域の境界画定の困難性    239

    1 問題の所在(239)   2 日韓間の主張の隔たり(240)   3 日中間の主張の隔たり(242)

  五 日本海・黄海・東シナ海における資源・環境保護の国際制度の設立―望ましい解決法     243

     1 日・中・韓・台による共同漁業水域の設定(243)   2 尖閣列島・竹島自然保護区の設定(249)



補章   島の領有権をめぐる仲裁判決の研究・・・・・・・・・・・・・・二五五

   一 はじめに   255

   二 パルマス島事件仲裁判決   256

     1 地理(256)   2 コンプロミーおよび手続(256)   3 判決(262)

     4 研究(315)

   三 クリッパートン島事件仲裁判決   316

   1 地理(316)  2 コンプロミー(317)  3 判決(318)  4 研究(323)



  あとがき   325



地図一覧

  日本海・東シナ海の大陸棚・排他的経済水域境界線、暫定水域、仮想中間線等(見返し)

日本近海海底地形図(浮き彫り式)(見返し)

   地図1  漁業水域設定時における外国漁船の操業確認海域(4)

   地図2  日本の直線基線(26)

   地図3  島根県沖(28)

   地図4  長崎県沖(29)

   地図5  イタリア=チュ二ジア=マルタ境界線(50)

   地図6  インドネシア=マレーシア間のボルネオ海の境界画定(51)

   地図7  ぺルシア(アラビア)湾の境界線(53)

   地図8  チュ二ジァ=イタリア境界線(54)

   地図9  北海大陸棚の境界線(125)

   地図10 英仏間大陸棚の境界線(61)

   地図11 チュニジア=リビア大陸棚境界線(125)

   地図12 小田反対意見(156)

   地図13 リビア=マルタ境界線(161)

   地図14 メイン湾境界線(166)

   地図15 サンビエ-ル=ミクロン沖境界線(168)

   地図16 ギニアビサウ=ギニアの各境界線(172)

   地図17 グリーンランド=ヤンマイエン間境界線(175)

   地図18 日韓大陸棚協定国(188)

   地図19 旧日韓漁業協定国(191)

   地図20 尖閣諸島位置図(197)

   地図21 進貢船コース(207)

地図22 竹島の位置(226)





第八部内陸国(リスト9)

第九部shelf-locked 国および狭い大陸棚または短い海岸線しかもたない国の権利・利益(リスト10)

第十部群島(リスト16)

第十一部 閉鎖海と半閉鎖海(リスト17)

第十二部人工島と人工の施設(リスト18

第十三部島の制度(リスト19)

(4)Aegean Sea Continental Shelf, Judgement, I.C.J., Report 1978, p.3.なお、仮保全措置の問題について、皆川
洸「エーゲ海大陸棚事件」国際法外交雑誌第七六巻三号参照

(5) A/AC./SC.II/L.9(16 July 1973). “4.the provisions applicable for the determination of the continental
shelf and the zones of national jurisdiction of the continental part of the State are as a general rule applicable
to islands.”

(6)  Cf.AC.138/SC.II/L.31 and L.32.

(7)  チュニジアとイタリアの大陸棚境界画定条約については、本文五四頁参照。

(8)Report of the Committee on the Peaceful Uses of the Sea-Bed and the Ocean Floor beyond the Limits of
National Jurisdiction,GAOR.,28 Seas.,Suppl. Vol. III,p.106.

(9)Cf.E.D.Brown, “Rockall and the limits of national jurisdiction of the UK; Part I “Marine Policy July 1978, p.
206.

(10)  GAOR.,28th Sess., No21(A/9021), Vol.III, p. 98.

(11)  同旨D.E.Karl, “islands and the Delimitation of the Continental Shelf:A Framework for Analysis, “71 AJIL
642,646.647(1977)

(12)各国草案のテキストは、The Third United Nations Conference on the Law of the Sea, Official Record
Voiume III  所収。

(13)  「衡平な解決」「合意により行う」ということの具体的意味内容の確定の難しさについて、小田滋、前掲『注解
国連海洋法条約上巻』ニ四三頁参照。







以下本文


--------------------------------------------------------------------------------
第一章  島と大陸棚境界画定

  三 若干の国家慣行と島の取り扱い   49ページ

   島が大陸棚の境界画定に対してどのような効果を有するか、ということについては、第三次国連海洋法会議に
おける諸提案からも分るように、完全な効果(full effect)をもつという一方の極と、島が完全に無視されて境界画定
される、つまり、無効化(no effect)という他方の極があり、この二つの間に、英仏大陸棚境界画定事件判決で裁判
所がシリー諸島に対して認めた半分効果(half effect)を含む各種の部分的効果(partial effect)を島に対して認める
例が国家慣行の中には見られる。







-中略-







第三章  尖閣諸島・竹島の領有問題と排他的経済水域の画定



      一    はじめに

 

 日本のかかえる領土問題は、周知のように,日露,日中、日韓の間にあり、ロシアが支配する歯舞諸島、色丹島、択
捉島、国後島の所謂北方領土の返還を日本が求め、日本が支配している尖閣列島(中国名釣り魚諸島)の領域権
を中国が主張し、又韓国が支配する竹島(韓国名独島)については日本が領有権を主張している。このうちいわゆる
北方領土は、日露間の水域の境界画定に対する島の効果という問題は問題の対象ではなく、まさに島の領有そのも
のが正面から問題なのであり、また、無人島である尖閣諸島や竹島と異なり、定住人口があり、さらに、北方領土の
場合には、一八五五年の日露通好条約、一八七五年の樺太・千島交換条約、一九〇五年のポーツマス条約、一九
五一年のサンフランシスコ平和条約等の関連条約・国際文書があり、問題の性格も外交交渉のあり方も異なるの
で、とりあえず、本書の分析対象からは外した(幕末・明治期における日本の周辺領域の確定と其の後の拡大など
の日本の領域の変遷については、芹田健太郎「日本の領土の変遷」、国際法事例研究会・日本の国際法事例研究
会(3)『領土』(一九九〇年、慶応通信)所収参照)。





      二 尖閣列島問題

1 はじめに

 

尖閣諸島は、魚釣島、北小島、南小島、久場島(黄尾嶼)大照島(赤尾嶼)、沖の北岩、沖の南岩、飛瀬の総称であ
り、総面積は約六・三平方キロメートルで、最大の島である魚釣島が約三・六平方キロメートルである。この尖閣列島
は、ある時期に日本人が定住したことがあるほか、昔も今も無人島でありとくにこれといった天然資源はないとされて
いたため、とくに世人の注目を浴びることもなかった。しかし、昭和四三年(一九六八年)秋、日、韓・台の科学者が
中心としてエカフェが東シナ海一帯にわたって行った地球物理学的調査により、台湾のほぼ北東約二〇万平方キロ
メートルの海底区域に石油資源が豊富に埋蔵されている可能性が指摘され、にわかに諸外国の注目を集め、昭和
四五年(一九七〇年)後半になって中国側による領有権主張がみられることとはったことは周知のとおりである。一
九八〇年代までのところ、民間での議論が先行しており、中国政府が公式に尖閣列島に対する領有権を主張したの
は、昭和四六(一九七一年)一二月の「外交部声明」が最初であり、これに尽きている。また日本は翌年三月八日
「外務省基本見解」を発表した。従って、本書ではこれらを中心に分析する。



  2 中国側の主張とその根拠の検討

(1)沖縄返還協定の「返還区域」への組入は不法であるとの主張の検討

一九七一年一二月三〇飛の中華人民共和国政府外交部声明は次のように始まる。

日本佐藤政府は近年来、歴史の事実と中国人民の激しい反対を無視して、中国の領土釣り魚島等の島嶼に対して
「主権をもっている」と一再ならず主張するとともに、アメリカ帝国主義と結託してこれらの島嶼を侵略・併呑するさまざ
まな活動を行ってきた。このほど、米日両国の国会は沖縄「返還」協定を採決した。この協定のなかで米日両国政府
は公然と釣り魚などの島嶼をその「返還区域」に組み入れている。これは、中国の領土と主権に対するおおっぴらな
侵犯である。これは中国人民の絶対に容認できないものである。

 さらに同声明はこれを敷衍して次のように言う。・

  第二次世界大戦ののち、日本政府は不法にも、台湾の付属島嶼である釣り魚島などの島嶼をアメリカに渡し、ア
メリカ政府はこれらの島嶼に対していわゆう「施政権」をもっていると一方的に宣言した。これは、もともと不法なもの
である。・・・・いま、米日両国政府はなんと不法にも、ふたたびわが国の魚釣り島など島嶼の授受をおこなっている。
中国の領土と主権に対するこのような侵犯行為は、中国人民のこのうえない憤激をひきおこさずにはおかないであろ
う。

 この中国の主張は、サンフランシスコ平和条約に即して整理すれば次のことを前提にした主張となる。すなわち、
尖閣列島は、サンフランシスコ平和条約によって日本の領土から最終的に切り話されることとなった台湾等の地域
(第二条)に含まれていたのであって、南西諸島のように引き続き日本領土として残されるが当面は米国の施政権
下に置かれる地域(第三条)に含まれたものでない、しかも、その領域権は一九七一年六月一七日の沖縄返還協定
調印時(翌七二五月一五日発効)にも存続している、とするものである。

最も、中国は、台湾等の地域については、日本が一九四五年八月一四日にポツダム宣言を受託した直後に、同宣言
のりょうど条項の規定する「台湾・澎湖島」の中国へ「返還」に着手し、八月二九日には早くも台湾省行政長官兼警
備総司令を任命し、九月二日ノ日本降伏文書調印直後の台湾省行政長官組織条例を公布、一〇月には具体的に
台湾摂取に着手し、一〇月二五日に「受降典礼」なる正式の摂取手続きを行って、これを正式に自国領として回復し
た、としたのである。そして、中国は、他の自国領土と同じ行政をそこに敷いたのであり、台湾等の地域の場合は、こ
のように、ポツダム宣言の領土条項に関連して、中国かぎりの国内的処理によって、中国領編入が平和条約に先立
っておこなわれていた(入江啓四郎『日本講和条約』(一九五一年板垣書店)六一―六四頁参照)。サンフランシスコ
平和条約は最終的に法的にいわばこれを確認したのである。従って、尖閣列島は、サンフランシスコ平和条約締結
時には、すでに中国領土であった、とするのがより厳密な中国の法的主張と    いえよう。このことは、一九七一
年一二月三〇日の北京放送からも読みとれる。次のようにお述べる。 

アメリカが沖縄[返還]協定にもとづいて、かれらに占領さていた中国の領土魚釣島などの島嶼を「返還区域」のなか
に入れるというにいたっては、いよいよデタラメもはなはだしい。第二次世界大戦後、日本帝国主義は台湾と澎湖列
島を中国に返還した。ところが台湾に付属する島嶼である魚釣島などの島嶼は日本によってアメリカの占領にゆだね
られた。これはもともと不法である。

なお、沖縄占領については、米軍は、一九四五年三月二六日、慶良間諸島に、ついで四月一日に沖縄本島に上陸
し、日本の降伏後、一二月に宮古群島に、翌年一月に奄美大島群島に占領を展開したのであり、宮古、八重山、奄
美の各群島について、米国海軍政府が布告一号のA「南西諸島及びその近海居住民に告ぐ」を公布したのは、一九
四五年一一月ニ六日であり、実際に軍政が施行されたのは、宮古群島一二月八日、八重山群島同二八日であっ
た。

この沖縄の軍事占領において、米国は旧沖縄縣の行政地域をそのまま引継ぎ、たとえば、一九四六年一月ニ九日
付きの連合国司令官総司令部による「外郭地域の行政分離に関する覚え書」に対して日本の外務省が非公式に連
合国総司令部に提出した「南西諸島観」の南西諸島一覧には、「尖閣諸島」を赤尾嶼、黄尾嶼、北島、南島、魚釣の
島名をあげ列記して、沖縄県の範囲に含めている。これら一連の事実は、中国による台湾等の中国領編入後のこと
である。

 こうした事実に対して、しかしながら、同じ連合国の一員として十分に知っていたと思われる中国が何等かの抗議
を申し入れた形跡は全くない。一九七一年四月二〇日の台湾の魏外交部スポークスマン談話では、「同列島嶼は米
国による軍事占領が行われたが、当時和が政府は共同防衛の安全からみてこれを必要な措置であると考えた」と説
明していおる。これについての証拠は全く示されない(亞東関係協会副代表を務めていた林金茎『戦後の日華関係
と国際法』(一九八七年、有斐閣)一八二頁も同旨を引用しているが典拠は示していない)。

また、中国側は、一九七二年三月八日のわが国外務省基本見解に対する反駁を同年四月北京週報に発表し、「周
知のように、第二次世界大戦後、日本政府は勝手に、台湾の付属島嶼釣り魚島などの島嶼をアメリカに引渡し、アメ
リカ政府はこれらの島嶼にたいし『施設権』をもっと一方てきに宣言した。これは元々不法なものである。中国政府と
中国人民はこれまでそれを承認したことはない」と述べている。しかし、ここでも、尖閣列島が米国の「占領地域」の
中に含められ、さらに、米国の「施政区域」に引き継がれたたことに対する抗議を行ったことの証拠ないしこれを承認
しなかったことの証拠は全く示されていない。もとより、「施政権返還区域のなかに」尖閣列島が含まれていること
は、日本がこれらの島嶼に対し領有権をもつ根拠にはならない。沖縄返還協定締結時に勝手に日本に組み入れた
のであれば、中国側の抗議は正当であるからである。

ところで、尖閣諸島は、中国の主張するように、第二次世界大戦後沖縄返還協定締結時に至るまで、引き続き、中
国領であったのであろうか。この中国の主張の最大の弱点は、尖閣所要が、戦前、行政的に属していた沖縄縣八重
山群島に対する米国の軍事占領が始る約二か月前の一九四五年一〇月二五日には中国による台湾等の領土編
入措置が終了しており、しかも、戦後、台湾省で偏修された文献は、台湾ほんとうからやや北の彭佳嶼をもって台湾
省最北端としていることである。台湾及び北京で発行された地図も、尖閣諸島を中国領の範囲から除外し、琉球群
島の一部としている。この事実は、中国側に尖閣諸島が自国領であるという認識がなかったというにとどまらず、より
積極的に、尖閣諸島は日本領であるという認識があったことを示すものであろう。なぜなら、もし、中国側に尖閣諸島
が中国領であるという認識があれば、つまり、尖閣諸島がカイロ宣言に言う「満州・台湾及澎湖島のような日本国が
清国人から盗取したすべての地域」に含まれるものであると言う認識であれば、台湾等につき戦後直ちに領土編入
措置をとったことにみられるように、戦勝国中国が尖閣諸島を中国領に編入することに関して何らかの困難や障害が
あったとは思われないからである。

翻って、日本は、米国による軍事占領に続く米国施政権下のおいても、琉球列島米国民政府、琉球政府の行為とい
う形で有意な数々の行為を行っていた。

先ず、群島組織法(米合衆国軍政府布令第二二号)、琉球政府章典(米国民政府布令第六八五号)琉球列島の地
理的境界(米国民政府布告第二七号)は、琉球列島米国政府、琉球政府等の管轄区域を緯度、軽度で明示し、尖
閣列島は当然のこととしてこの区域内に含ましめていた。

次に、一九五一年黄尾嶼及び赤尾嶼に米海軍の爆撃演習海域が設立され、黄尾嶼は特別演習地域に指定され
た。国有地である大正島(赤尾嶼)は、一九五六年四月一六日以降、演習地に指定されたが、民有地である久場島
(黄尾嶼)については、米国民政府は琉球政府を代理人として所有者古賀善次氏との間に一九五八年七月一日軍
用地基本賃貸契約(Basic Lease GRI Nr.183-1)を結び、古賀氏に賃貸料を支払った。琉球政府は古賀氏所有の
四島に対し、固定資産税(註)を賦課徴収してきた。また、あらたに久場島の軍用地使用地用収入にさいしても源泉
徴収を行っている。なお、大正島、久場島、の射撃場は、沖縄返還交渉の日米両国政府間の了解に従い、日米政
府は、復帰後、日米安保条約及び日米地位協定に基づき、これを「施設・区域」としって日本政府から在日米軍に提
供することとなった。

(註)私自身の一九八三年三月三日の石垣市財務課からの聴取によれば固定資産税は次のようであった。大正島
(亜子島嶼)(石垣市字登野城二三九四番地)は国有地であり、当時縄氏在住の古賀善次氏は一九七四年六月ニ
一日埼玉県大宮市在住の栗原国起氏に対し魚釣り島(石垣市字登野城二三九三番地)、北小島(ニ三九一番地)、
南小島(同二三九〇番地)ヲ売却していたので、久場島(黄尾島嶼)(同二三九三番地)分として古賀氏九万円、其
の他三島分として栗原氏四五万円の固定資産税あった。



 第三に、一九六八年八月に南小島において台湾人が沈船解体作業を行っていたことに関連してとられた措置があ
る。八月一二日琉球政府法務局出入管理庁係官は台湾のサルベージ会社興南工程所がテント小屋や起重機を設
置して沈船の解体作業をおこなっているのを発見し、業者が入城許可証等を持参していなかったため直ちに不法入
城者に退去命令と入城手続きの申請の勧告を行った。これら台湾人労働者は、一丹南小島から退去し、南小島へ
の入城手続を行い、同年八月三〇日付および翌年四月二一日付をもって琉球列島高等弁務官の許可を得て入城が
認めれた。これらの台湾人の労働者にたいする入場許可は一九六八年八月一日から翌年一〇月三一日までの期
限とされ、作業期限が遡及して認められたほかは、若干の設備や施設も高等弁務官の入場許可に基づいて認めら
れた。こうしたことについていずれの国からもいかなる抗議もなかった。なお、同サルベージ会社の責任者は国府逓
信省の解体免許証等のほか台湾守備隊本部の出国許可証を所持していた。このことは、いかなる抗議も無かったこ
とと合わせて、台湾当局が南小島を自国領と意識していなかったことを推測させるに十分である。

さて、琉球政府は一九七〇年七月八日から一三日にかけて尖閣諸島に領域表示板を建立した(これに対しては翌
七一年一二月三〇日の北京放送が「これらの島嶼を『領有』する規制事実を作りあげようとした」と非難する報道をし
ている)が、中国は同年一二月四日非公式ながら、新華社報道が日台韓三国の東シナ海大陸棚資源合同開発を非
難し、はじめて尖閣諸島に対する領有権を主張し、続いて同月ニ九には人民日報は「日本が釣魚島など中国に属す
る一部の島嶼や海域をも日本の版図にくみいれようとしている」ことを伝え、「釣り魚島、黄尾島嶼、赤尾島嶼、南小
島、北小島、などの島嶼は、台湾と同様、大昔から中国の領土である」と報道した。つまり、中国は、一九七〇年ま
では、一九四五年以降全く領有主張せず、何ら有効な講義もしてこなかったのである。裏返せば、日本は、戦後の
二五年の間、尖閣諸島に対して、平和的に、かつ、継続的に、国家権力を発現してきたのである。

以上のことから、少なくとも、サンフランシスコ平和条約締結時に尖閣諸島はすでに中国領であり、沖縄返還協定締
結時にも、引き続いて中国である。という中国の主張は、はなはだ根拠薄弱なものと言わざるを得ないであろう。

(2)尖閣諸島は台湾の付属島嶼であるという主張の分析

一九七九年一二月三〇日の中華人民共和国政府外交部声明は次のように言う。

  釣魚島などの島嶼は昔から中国の領土である。はやくも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域の
なかに含まれており、それは琉球、つまり今の沖縄に属するものではなくて、中国の台湾付属島嶼であった。中国と
琉球とのこの地区における境界線は、赤尾嶼と久米島との間にある。中国の台湾の漁民は従来から釣魚島などの
島嶼で生産活動に携わってきた。日本政府は中日甲午戦争を通じて、これらの島嶼をかすめとり、さらに当時の清朝
政府に圧力をかけて一八九五年四月、「台湾とそのすべての付属島嶼」および澎湖列島の割譲という不平等条約―
「馬関条約」に調印させた。

一九七一年一二月三〇日の北京放送はこれを敷衍して次のように述べている。

  中国の明朝は倭寇の進入・撹乱に対抗するため、一五五六年胡宗憲を倭冦(わこう)討伐総督に任命し、沿海各
省のおける倭寇討伐の軍事的責任を負わせた。魚釣り島、黄尾島嶼、赤尾島嶼などの島嶼は、当時、中国の海上
防衛範囲に含まれていた。中国の明、清両王朝が琉球に派遣した使者の記録と地誌についての史書の中では、こ
れらの島嶼が中国に属し、中国と琉球との境界は、赤尾島嶼と古米島、すなわち現在の久米島との間にあったこと
が、いっそう具体的に明らかにされた。

 一八七九年の中国の清朝の北洋大臣李鴻章は、日本と琉球の帰属の問題について交渉したとき、中日双方は琉
球が三六の島からなり、魚釣島などの島嶼は、全然そのうちに含まれていない事を認めている。

 魚釣島などの島嶼が中国に数百年も属してきたのち、日本人はようやく一八八四年になって、これらの島嶼を「発
見」した。日本政府はただちに、その侵略・併合をたくらんだが、当時はあえて、すぐさま手を着けようとはせず、一八
九五年、甲午戦争で清朝政府の敗北が、確定的となったときに、これらの島嶼をかすめとった。つづいて、日本政府
は清朝政府に圧力をかけて「馬関条約」を締結させ、「台湾とそのすべての付属島嶼」および澎湖列島を日本に割譲
させた。

 さて、これらの中国政府外交部声明お呼び北京放送にみられる主張は、分析すれば、次の四点に要約される。こ
れら四点について以下において個別的に検討する。

(イ)尖閣諸島が早くも明代に「中国の海上防衛区域」に含まれており、中国の台湾の付属島嶼であった。

(ロ)歴代の冊封使録等から明らかなように、中国と琉球の境界は赤尾島嶼と久米島との間にあった。

(ハ)日清間のいわゆる琉球問題についての交渉の折、双方ともに「琉球三六島」に尖閣諸島が含まれていないこと
を認めていた。

(ニ)日本人が尖閣諸島を見つけたのは、これらの島嶼が中国に属するようになってから数百年もたった一八八四年
のことであり、一八九五年に日清戦争で清朝政府の敗北が確定的になった時に、これを「かすめとった」。そのあとす
ぐ日本政府は馬関条約にむりやり調印させ、台湾およびすべての付属諸島と膨湖列島を日本に割譲させた。

(3)  中国側主張の個別的検討

(イ)中国政府外交声明は尖閣諸島が明代に中国「海上防衛区域」に含まれていたことを立証する明代の古文書をあ
げてはいないが、各種の研究から推察すれば、一六世紀中葉に編纂された胡宗憲撰『壽海図編』がそれであろう
(井上清『尖閣列島』一九七二年、現代評論社、三二頁。尾崎重義「尖閣諸島の帰属について(下の二)」『レファレン
ス』二六三号、(一五八頁ほか。なお、尾崎重義はこの論文の歴史的検討の部分を加筆補正した「尖閣諸島の国際
法上の地位」筑波法政第一八号(その一)を一九九五年三月に発表した)。

  井上清によると、同書の巻一「沿海山沙図」の「福七」~「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海
の島々が示され、「鶏籠山」、「膨加山」、「魚釣嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「撤檻山」、「赤嶼」がこの順に西から東
へ連なり、これらの島々が福州南方の海に台湾の基隆沖から東に連なるもので、「魚釣諸島をふくんでいることは疑
いない」。「この国は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『壽海図編』の
巻一は、福建のみでなく倭寇の襲う中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北の順にかかげているが、そ
のどれにも、中国領以外の地域は入っていないので、魚釣諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない」。

 ところで、この井上清の主張は充分維持できるであろうか。尾崎重義によると、『壽海図編』巻四には、「福建沿海
総図」があり、それには澎湖島は記載されているが、台湾、台湾北東の基隆嶼、彭島嶼や尖閣諸島はいずれも記載
されておらず、「この方が当時の実情に即している」。『壽源県志』(明代一六一四年)、『寧徳県志』(清代一七一八
年)(いずれも官製の地方志)などを見ると、尖閣諸島が当時福建省のこれらの県の行政範囲に含まれていなかった
ことが知られるし、また同じく官製の『重纂福建通志』(清代一八三八年)の巻一にある「福建海防全図」にも、尖閣
諸島は全く記載されていない。なお、奥原敏雄によれば、『壽海図』を引用するのであれば、[同書巻一の一七「福建
界」が当時の福建省の境界をしめすうものとして適当であるといえよう](福奥原敏雄「尖閣諸島領有権の根拠」『中
央公論』一九七八年七月号)が、この地図に示されているのは膨佳山までであって、台湾、尖閣諸島は描かれてい
ない。つまり、尖閣諸島は福建省に属していなかったのである。

 胡宗憲が倭寇討伐総督に任命されたのは『壽界図編』が著される数年前の一五五六年のことである。倭寇の歴史
の中で、倭寇がもっとも猛威をふるったのは、一五五三年から一五五九年の間であり、中国は本土沿岸の防衛に
汲々とする有様で、膨湖島にさえ明の防衛力は及んでおらず、倭寇の方は、中国本土と琉球、とくに宮古、八重山
諸島の間をかなり自由に往来していたようであるが、明の軍船が倭寇を追って琉球まで来たという事実は中国側や
琉球の史料によって確認されていない。一五五三年に数十群の倭寇を糾合した王直は、胡宗憲の同郷人で有った
ため、うまく故郷におびき出されて一五六〇年に処刑された。こうしたことをも考慮すれば、「沿海山沙図」にのみ尖
閣諸島が記されているのは、これらの島嶼が倭寇の襲来する際の針路にあたり、また付近が倭寇の出没する海域
であるので、本土防衛上注意すべき区域であることを示しているに過ぎないであろう。『壽海図編』の本文には、当時
尖閣諸島が倭寇防衛範囲に入っていたという記述はないが、仮に、これまでの研究によっては知られていない別の
典拠があって、中国外交部声明が言うように、尖閣諸島が早くも明代に「中国の海上防衛区域」に含まれていたとし
ても、すでに述べた事情から、現実に尖閣諸島に中国の何らかの支配が及んでいたとは到底考えられない。

 さて、それでは、尖閣諸島は明代に中国の台湾付属島嶼であったのであろうか。『明史』では、台湾は東蕃として
「外国列伝」に入れられており、台湾北部の鶏籠山(今の基隆)も「外国列伝に含まれている。このように、明代に
は、尖閣諸島はもちろんのこと、台湾の北部(基隆)や台湾北東の彭佳嶼、花瓶嶼、綿花嶼、などに中国の支配は
及んでおらず、また、中国は領有の意志も持っていなかった。台湾は、隋や元の遠征を受けたことはあったが未開の
地であり、明代になって倭寇の根拠地ができ、明末一七世紀初頭にはオランダ人が南部にゼーランジア城などを築
き、スぺイン人がマニラから来て北部の基隆などを貿易の根拠地にしたが、間もなくスペイン人はオランダ人に追わ
れ、約四〇年のオランダ人支配が続いた。

 一六四四年に明を滅ぼし北京に入城した清は一六八一年には華南も平定した。しかし、清朝に抵抗する鄭成功は
一六六一年台湾に渡ってオランダ人を駆逐し、ここを根拠にさらに続けたが、一六八三年、台湾に出兵した清軍の軍
門に降り、ここにはじめて清は台湾を中国の版図に入れ、福建省所属の台湾府を置いたのである。従って、明代に
尖閣諸島が「中国の台湾付属島嶼」であった事実はない。なお、胡宗憲の前任者の姪により日本に渡り国情・地理
を内定し、帰国後その資料に基づき一五五六年に『日本一鑑』を著した鄭成功は、同書中の「万里長歌」で、釣魚嶼
「小東之小嶼也」と言っているが、これは魚釣島が地理的に小東(台湾)に付属(又は近接)する小嶼であるよ鄭が
理解していたことを示している。もっとも、清による台湾の版図編入が尖閣諸島をふくむものであるかどうかは、すで
に述べた事情から否定的であるが、明確でははない。いずれにしろ『日本一鑑』を著した時は鄭は一私人であった。



(ロ)歴代の冊封使録等から明らかなように、中国と琉球の境界は赤尾島嶼と久米島の間にあった、と中国は主張す
る。

さて、琉球国と中国とが始めて正式に交渉をもったのは、明の太祖(宋元璋)が元を亡ぼして即位した直後の一三七
二年に、使節を琉球に派遣し、天下の統一を告げるとともに、その帰順を促し、この「招諭」と称する通告に応じて琉
球中山王が使節を派遣したときである(なお、同年使節は室町幕府にも遣わされ、将軍義満は、琉球国同様、その
招諭を受諾し「日本国王臣源某」と称して忠誠の意を誓った)。このような招諭を受理し、近隣四周の小国がそれぞ
れ使節を派遣して忠誠の意を表すると、明朝ではこれを入貢・朝貢オ称し、その進物を貢物または方物などと唱え
て、派遣船・派遣使節を朝貢・入貢・進貢船(使節)等の名で呼んだ。こうした朝貢・入貢の礼式に対し、明朝では、こ
れら諸国の国王に冊封を唱えて、爾を封じて某国国王と為す、との勅書を与えていた。この朝貢・冊封関係が漸次
具備形式化されてくると、沖縄では一つの国事としての準備と形式が重んじられ、先王崩御の二年後に請封使を中
国に派  遣するのを慣例とした。冊封の礼式は、先王祭り(諭祭)、新王を封ずる(冊封)というニ大儀礼を礼とした。
こうした冊封使は、洪武五年(一三七二年)から、明治一二年(一八七九年)に明治政府関係が琉球藩を廃止し、沖
縄縣を置き琉球の中国との冊封関係を禁止するまでの五〇〇年間に、ニ三回派遣された。うち明代に一五回、清代
に八回であった。これに対し、琉球側からは、進貢船のほか、とくに明代には、冊封船が福建省の首府福州を発つ
前にこれを向かえに福州まで行った接封船、冊封船が琉球から帰国するときに同行した謝恩船とか、慶賀船などさ
まざまな名目の使船が派遣され、琉球からは、明代に、実に一七一回も使船が派遣されている。このように、琉球船
が中国に赴くことの方が圧倒的に多く、また明代の琉球は、朝鮮、南洋諸国とも交易を行い、貿易の中継地として栄
え、従がって琉球近海の航路、とくに琉・中間の航路については琉球人の熟知するところであった。

 ところで冊封使は、その渡航に際して、琉球国に関する一切の知識を吸収することはもちろんのこと、帰国後には、
自らの見聞・体験等を通して、航海の事情や一切の儀礼、琉球国の国情等についても記録し、その使録とし、後世
の冊封使等の指標に供するのを慣例とした(喜舎場一隆「尖閣諸島と冊封使録」『季刊沖縄』六三号)。現在見ること
のできる冊封使録は、平和彦によると、魚釣島嶼、黄尾嶼、赤尾嶼などについての記述がはじめて現れる陳侃の『使
琉球録(一五三五年)に始まり、琉球最後の中山王尚泰を冊封した超新までの一三の使録である(「中国史籍に現
われたる尖閣(釣魚)諸島」『アジア・アフリカ資料通報』一〇巻四号・六号)。

(1)陳侃『使琉球録』(一五三四年度渡琉)。

(2)郭如霖『重刻使琉球録』(一五六一年渡琉)。

(3)蕭崇業・謝杰『使琉球録』(一五七九年渡琉)。

(4)夏子陽・王士禎『使琉球録』(一六〇六年渡琉)

(5)胡靖『杜天使冊封琉球眞記危観』(正使は杜三策・副使楊?。胡靖は正使の従客。一六三三年渡琉)。

(6)張学礼『使琉球記』(一六六三年渡琉)。

(7)汪楫『使琉球雑録』(一六八三年渡琉)。

(8)徐葆光『中山伝信録』(正使は海宝・副使徐葆光。一七一九年渡琉)。

(9)周郊煌『中琉球国志略』(正使は全魁・副使周煌。一七五六年渡琉)。

(10) 李鼎元『使琉球記』(正使は趙文楷・副使李鼎元。一八〇〇年渡琉)。

(11) 斎鯤・費錫章『続琉球国志略』(一八〇八年渡琉)。

(12) 冊封正使林鴻年、副使高人鑑は一八三八年に渡琉したが、その使録は、この時の針路が次の使録に引用
されているほか、現在は無い。

(13) 趙新・干光甲『続琉球国志略』(一八六六年渡琉)。

  これらの使録のうち、他の使録に与えた影響やその利用度の上からみると、後世使録の原録敵勝と一応の指標
的存在であった明代の陳侃の『使琉球録』と、わが江戸期の冊封使録の代表的存在として、また多くの学者・知識
人の指標ともなってきた徐葆光の『中山伝信録』のニ書がとくに重要な意味をもっている(喜舎場前掲論文)。

 これら使録の記述の中で、その論文が北京の光明日報や人民日報(一九七二年五月四日)に全訳掲載された井
上清が重要視するのは、陳侃使録「十一夕、見古米山、乃属琉球者」や郭徐林使録「赤島者、界琉球地方山也」で
あり、清代の汪楫使録ニ十五日、見山、応先黄尾、後赤嶼、無何遂至赤嶼也。薄暮過郊(或作溝)、風涛大
作。・・・・・問郊之義何取。曰。中外之界也。界於何辨。曰。懸揣耳。」であり、徐保光使録「取姑米山(琉球西南
方、界上鎮)」等である(井上清『尖閣諸島』一九七二年、現代評論社。なお、平、喜舎場掲論文参照)。人民日報な
どが井上論文を全訳掲載していることから考えると、あるいは中国外交部声明にみる主張の根拠もこれらの記述に
あるのであろう。

  これらの記述のみから判断すれば、確かなことは久米島が琉球領内にあることのみである。尖閣諸島は一見琉
球領外にあると思われる。然しながら、これらの記述を十全に理解するには、当時の航路の事情や使録にしても往
路のみならず帰路の記述にも注目しなければならず、史料としての厳格な検討も要求される。そうすれば、必ずし
も、中国側に有利とばかりは言えない。

  先ず、当時の副州・琉球間の航路をみると、今日の台湾島を通過して後は、久米島に至るまで、その間の諸島嶼
はいずれも無人島であり、実用的効用をもった活用も全くなかった。久米島に至ってはじめて人間の居住する島が存
在し、しかも、当時の琉球国の領民の居住地も、この福琉間の海路上においては、久米島をもってその西南界として
いたのである。当時の琉球国の版図、おわゆる琉球三六島は、人居の地と首里王庁への貢納の義務を負っている
ことが条件であり、これら条件を満たした島嶼のみが王府領と明記されていたのである。こうした事情からも、久米島
は西南界に相当し、また八重山群島中の波照間島や与那国(尾崎前掲島は極南の地でもあった(喜舎場前掲論
文)。尖閣諸島が居住や、貢納を条件とする琉球版図内に入っていなかったという事実と同様に、明代および清代の
福建省の地方志や、台湾が中国の版図に入り台湾府が設置された後の清代の地方志は、いずれも、尖閣諸島が
福建省または台、湾省の行政範囲に含まれていないことを示している(尾崎前掲論文(下の二)一六〇)。つまり、行
政的な観点から論じれば、尖閣諸島は、琉球にも、また福建省や台湾省にも編入されたという確たる証拠はない、と
いうのが真実である。従がって、各使録に登場する魚釣り島など当時の福琉間の航海上の目標となった島嶼として
記載されたとするのが、もっとも自然な見方であろう。

  次に、こうした見方を裏つけるものとして、冊封使の帰国時における航海記の記述である。那覇港を出た封船は、
馬歯・姑米の両山を過ぎ、赤尾・黄尾・釣り魚の諸島および小琉球を南にとって、南把・鳳尾・魚・台・里麻などの諸
山を北にして福建の定海所に入り、閣安鎮に進むのであったが、徐葆光『中山伝信録』の「進路」の項で、この南把
山を望見したところではじめて淅江温州に属すると明記しており、来球時の姑米山をもって陳侃が「乃属琉球者」と述
べた文脈文勢に対比できる。また徐芳光一行は、一七二〇年二月一六日に帰国の途についているが、同月ニ四日
の条に「日出用単申一更、至魚山及鳳尾山、二山皆属台州、封舟回閑針路、本取温南把山、此二山又在南把北五
百里」とあり、この両山に至る海路上に在る今日の尖閣諸島の島嶼については、あえてその版図などについては全
く言及するところなく、むしろ魚山及び鳳尾山にいたってはじめて「二山皆属台州」と記載しており、来球時に冊封使
等が久米島を琉球西南界と付記していたことと全く同趣の内容をもつものと言えよう。また、一八六六年に来球した
最後の冊封使趙新は、一八三八年の先代冊封使などの帰路の事情を述べ、同年一〇月一二日に那覇港を出た冊
風船が「十八日、小丑風、乃用西戌針。辰刻見中華外山、未刻見南把山、用未申針。十九日、午刻、過定海、未刻
進五虎門。」とあり、一二日に那覇港をでて、翌一三日に姑米山を通過し、一八日の辰刻に「見中華外三。未刻見南
把山」と述べているが、この中華の外山に至るまでの回路上に在る諸島嶼については此れを説明する割注なども全
くなく、今日の台湾島周辺諸島は別として、尖閣諸島についての記載は帰航時の記録中には全くない。「温州南把
山」とか「中華外山」などは、歴史学者喜舎場の言うように、「乃属琉球者」とか「琉球西南方界上鎮山」「界琉球地
方山也」の表記に等しく、全く表裏一体となすものである。このように、これら両方の発着・到着地に程近い島嶼は、
航海者にとってどうしても最終的に確認しなければならない島であって、一つの航路目標である。従がって、これらを
領域上の明瞭なる分岐点を示すものとして使録中の記l述に根拠を求めるのは適当ではないであろう。なお、汪楫使
録にみられる「郊、溝」すなわち「中外の界」も、喜舎場が詳細に検討しているように(前掲論文七一頁以下)、当時
の航海や航路を横切って流れる黒潮の存在や当時の海上信仰等を考慮して各使録等を検討すれば、国の内外の
境界としての領域意味をもつものではなく、むしろ水徑の意を言うものであったと思われる。

  以上の検討からあきらかになったことは、歴代の冊封使録等から中国と琉球の境界が赤尾嶼ト久米島との間に
あったのは明らかである、という中国の主張の根拠が脆弱なものであり、必ずしも明らかなことではないことである。



(ハ)日清間のいわゆる琉球問題についての交渉(琉球の帰属をめぐる日清交渉について、英修道「沖那覇帰属の沿
革」国際法学会編「沖那覇の地位」ニ〇―四〇頁参照)の折、双方ともに「琉球三六島」に尖閣諸島が含まれていな
いことを認めていた、と中国は主張する。

  いわゆる琉球三六島の意味するところについては、すでに述べたように、当時の琉球国の版図が、人居の地であ
りかつ、首里王庁への貢納の義務を負っていたことから、これらの条件を満たす島嶼のみが琉球史料や使録類に明
記されてきたことを示しているに過ぎないことを想起しないわけにはいかない。尖閣諸島は,明代や清代の福建省や
台湾省の地方志からみる限り、福建省や台湾省の行政範囲にふくめられておらず、また、人居の地・貢納の義務と
いう条件を満たす琉球三六島に含まれていないという点で、同じく琉球の行政範囲にも含まれていなかったのであ
る。従がって、尖閣諸島が「琉球三六島」に含まれていなかったという事実は、尖閣諸島の領域帰属の問題に対して
何らかの意味をもっているとは思えない。尖閣諸島が中国領であったことの決定的証拠にはならないのである。



(ニ)  中国はまた次のように主張する。日本人が尖閣諸島を見つけたのは、これらの島嶼が中国に属するようにな
ってから数百年もたった一八八四年のことであり、一八九五年に日清戦争で清朝政府の敗北が確定的となったとき
に、これを「かすめとった」。そのあとすぐ日本政府は清朝政府に馬関条約にむりやり調印させ、台湾およびすべての
付属島嶼と澎湖列島を日本に割譲させた、と。

 中国の言う「日本人が発見した一八八四年」については明確ではないが、明治一八年つまり一八八五年九月ニニ
日の沖那覇県令西村捨三から内務卿山縣有朋への上申書では次のように述べている。「本県ト清国福州間ニ散在
セル無人島取調之儀ニ付先般在京森本県大書記官へ御内命相成候趣ニ依リ取調致し候概略別紙ノ通ニ有之候抑
モ久米赤島久馬及魚釣島ハ古来本県ニオイテ称スル所ノ名ニシテシカモ本県所轄ノ久米宮古八重山等ノ群島ニ接
近シタル無人ノ島嶼ニ付沖名覇県下ニ属セラルルモ敢テ故障有之間敷ト被存候得共過日御届及候大東島(本県ト
小笠原島ノ間ニアリ)トハ地勢相違中山伝信録ニ記載セル釣魚台黄尾島嶼赤尾島嶼ト同一ナルモノニ無之哉ノ疑ナ
キ能ハス同一ナルトキハ既ニ清国モ旧中山ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラス夫夫名称ヲモ附シ琉球航海ノ目標
ト為セシ事明ラカナリ依テ今回大東島同様踏査直ニ国標取建候モ如何ト懸念仕候間来十月中旬両先島ヘ向ケ出帆
ノ雇汽船出雲丸ノ帰便ヲ以不取敢実地踏査可及御屈候条国標取建等ノ義尚御指揮ヲ請度此段兼テ上申候也」。こ
の報告を受けた内務卿は、「無人島久米赤島外ニ島ニ国標建立ノ件」を太政官会議(現在の閣議に相当)に提案す
るため、次のような上申案をまとめた。「沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル無人島久米赤島外ニ島取調べ之儀ニ付
別紙之通同県令ヨリ上申候処右諸島ノ儀ハ中山伝信録ニ記載セル島嶼ト同一ノ如く候ヘ共只針路ノ方向ヲ取タル迄
ニテ別ニ清国所属ノ証拠ハ少シモ相見ヘ不申且ツ名称ノ如キハ我ト彼と各其唱フル所ヲ異ニシ沖縄所轄ノ宮古八重
山等ニ接近シタル無人の島嶼ニ有之候ヘハ同県ニオイテ実地踏査ノ上国標相建候儀差支無之ト相考候間至急何
分ノ御詮議相成候様致度別紙相添此段相伺候也」。従ってこれらの公文書からも、また、すでに述べた中流間の冊
封関係の実態からも、日本人が尖閣諸島を発見したのは一八八四年であるという中国の主張には全く根拠がない。
もっとも、私人古賀辰四郎が明治二八年(一八九五年)六月一〇日提出した「官有地拝借願」で述べるように、尖閣
諸島ノ経済的利用価値の発見という意味であれば、それは日本人による一八八五年のことである。古賀は言う。「明
治一八年・・・・・・久場島二寄セ上陸致候処図ラスモ俗ニバカ鳥ト名ノル鳥ノ群集セルヲ発見致候・・・・・・バカ鳥ノ羽
毛ハ欧米人ノ大ニ珍重スル処ト承リ候・・・・・・・右羽毛ハ実に海外輸出品トシテ大イニ価値アルモノト信セラレ申
候・・・・・・」と。

 ところで、明治一八年の国標建設の件については、内務卿は上申案の提議に先立って同年一〇月九日外務卿井
上馨と協議し其の意見を求めた。一〇月二一日の井上の回答は、これらの島嶼が清国國境にも接近しており大東
島に比してもごく小さな島であり、「殊ニ清国ニハ其ノ島名モ附シ有之候ニ就テハ近時清国新聞等ニモ我政府ニオイ
テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等風説ヲ掲載シ我国ニ對シ猜疑ヲ抱キ頻ニ清政府ノ注意ヲ促シ候モノモ有
之際ニ付此際遽ニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置有之候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間実施ヲ踏査セシメ港湾ノ形状並
ニ土地物産開拓見込有無詳細報告セシムルニ止メ国標ヲ建テ開拓ニ着手スルハ他日ノ機会ニ譲候方可然存
候・・・・」というものだった。ここにみられるのは、当時の小国日本の大国清国に対する外交上の配慮である。明治一
八年以後、古賀等の私人による渡島のほか、明治二〇年には軍艦「金剛」により、また明治二五年には軍艦「海門」
による尖閣諸島の実地測量が行われたといわれる。しかし、これらに対する清国からの抗議の事実もなく、清国にお
ける新聞論調は、井上馨の回答にみられたように、日本に対し批判的であったにもかかわらず、清国政府は何らの
行動もとったようには見られない。このことは、クリッパ-トン島事件(本書補章三参照)において、メキシコが砲艦デモ
クラータを派遣したことを知ったフランスが間髪を入れずに抗議を申し入れていることのとの対比からすれば、清国に
尖閣諸島が自国領である、という認識がなったことを推察させるに充分であろう。少なくとも一九七一年になってから
これを「かすめとった」と非難しても、法的には何の意味もない。

 さて、最後に井上馨も触れている「島名」の問題について若干触れておかねばならないであろう。

 沖縄の島々の名は「沖」のつくものをはじめ、伊江島、水納島、瀬底島、与那国島、西表島、来間島、久高島という
ように明らかに和名である。一八七九年にいわゆる琉球処分を明治政府が行ったとき琉球王が中国の助けを求め、
これに応じ何如障中日公使は琉球が中国のものであると主張した(いわゆる琉球処分との関係で、大山梓「琉球帰
属と日清紛議」同著『日本外交史研究』(一九八〇年、良書普及会)一〇七―一五一頁参照)が、その折、沖縄出身
の歴史学者東恩納寛惇は、命名された方に触れ、固有の名称が和名であって中国名でないという事実をあげ、反論
した。こうしたことから、逆に、日本国際貿易促進協会常務理事高橋庄五郎は、黄尾嶼、赤尾嶼、釣魚嶼という島の
固有の島名は明らかに、台湾の花瓶嶼、綿花嶼、彭佳嶼、という島々の系列に入る命名法であって、中国名であ
り、中国領であったことを物語る、と主張する(『尖閣列島ノ-ト』一九七九年、青年出版社)。しかしながら、これにつ
いては、沖縄の人々に早くから「イーブン・クバシマ」とか「ユクン・クバジマ」おか「ユクン・クバ」などの呼称があったこ
とが、東恩納寛惇や藤田元春らの戦前から戦後にかけての研究によって知られており、また戦前の宮良当社の『八
重山語録』の研究や、冊封使陳侃の「盖琉球不習漢字、原無誌書、華人未嘗親至其地」と言う記述にみられる当時
の琉球の事情等を勘案すれば、琉球伝承の「イーグン(又はユクン)」等が冊封使一行に加わる琉球人舟夫によって
冊封使により採録され、中国語として定着してきたことも」十分考えられる。(尾崎、前掲〈下の一〉参照)。いずれに
せろ、国際法上は島名は係争中の島の同定のためには重要な意味をもつが、領域帰属をきめるための決定打には
ならない。因みに、フランス・メキシコ間で争われたクリッパ-トン島は、一八世紀初頭にそこを避難所にしていたイギ
リス人冒険家の名をものと考えられているし、オランダ・米国間で争われたパルマスト島(本書補章ニ参照)には発見
者スペインではなく、ポルトガル名さえみられ、また、英仏間のマンキエ・エクレオ事件(同一参照)で争われたこれら
の島嶼群の島名は明らかにフランス語系であり、語られる言語も、今でこそこれらチャンネル諸島では一般に英語で
あるが、儀式ではフランス語である。それにもかかわらず、これらのことは領域帰属問題の決定に関し何ら決定的意
味をもたなかった。従がって、尖閣諸島の島々が黄尾嶼、赤尾嶼と中国名であるにしても、そのこと自体で帰属問題
につき中国ぐぁに有利に働くというものではない。



   3  日本側の主張の検討

 

 一九七二年三月八日の外務省基本見解「尖閣諸島の領有権問題について」は次のように述べており、日本の主
張は先占による領域取得ということに尽きるようである。

  尖閣諸島は、明治一八年以降政府が沖縄縣当局を通ずるなどの方法により再三にわたり現地調査を行い、単に
これが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確定の上、明治二八年一月一四
日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定をおこなって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。(以下
略)

 一九七八年一月の外務省資料「尖閣諸島について」は、一九七二年の外務省情報文化局発行の冊子「尖閣諸島
について」とほぼ同じである。二本の領土に編入された経緯について次のように記している。

(一)慎重な編入手続き

  明治政府は明治一二年(一八七九年)に琉旧藩を廃止し、沖縄県を設置した後、明治一八年(一八八五年)依来
一〇年間もかけて数回に亙り沖縄縣当局を通じる等して尖閣諸島を実地に調査し、尖閣諸島が清国に所属する証
拠がないことを慎重に確定した後、明治二八年(一八九五年)一月一四日の閣議決定により、尖閣諸島を沖縄県の
所轄として、標杭を建てる事をきめました。

  このようにして尖閣諸島は、わが国の領土に編入されたのです。(この編入は、日清戦争後、台湾の割譲等を定
めた下関条約の調印された(明治二八年(一八九五年)四月一七日より以前であり、 尖閣諸島が台湾の一部とし
てあつかわれたことは、これまで一度もないのです)(以下略)

さて、明治二八年一月一四日の閣議決定は、すでに触れた明治一八年の沖縄縣知事からの上申のほか、明治二
三年一月一三日の「魚釣島外ニ島ノ所轄決定ニ関シ伺ノ件」さらに明治二六年一一月ニ日三度にわたる上申の結
果、「内務大臣請議沖縄縣八重山群島ノ北西に位スル久場島魚釣島ト称スル無人島ヘ向ケ近来漁業等ヲ試ムルモ
ノ有之為メ取締ヲ要スルニ付イテハ同島ノ儀ハ沖縄縣ノ所属ト認ムルヲ以テ標杭建設ノ儀同県知事上申ノ通許可ス
ベシトノ件ハ別ニ差支モ無之ニ付請議ノ通ニテ然ルヘシ」と決定したものであり、一月ニ一日付で「標杭建設ニ関ス
ル件請議ノ通」と沖縄縣知事に指令した。沖縄県がこの指令に基づき現地に標杭を建設した事実は確認されていな
いが、こうして日本領編入が行われた。

ところが、いわゆる尖閣諸島は、閣議決定が言及する魚釣島、久場島(黄尾嶼)のほか、沖縄で久米赤島という名で
知られる赤尾島嶼と魚釣島周辺に南北二小島や岩礁がある。南小島、北小島や飛瀬、沖の南岩、沖の北岩の岩礁
は魚釣島、久場島(黄尾嶼)とほぼ一体をなしており、とくに閣議決定による言及がなくとも、これらの小島也岩礁も
領域編入の対象となったと考えられる。明治二九年四月一日の勅令によって沖縄縣に群制が施行され、魚釣島、久
場島の両島はまもなく八重山郡に編入され、南小島、北小島とともに国有地に指定された。ところが、久米赤島(赤
尾嶼)が国有地に指定され、国有地台帳に記載されたのは、大正一〇年(一九に一年)七月二五日のことえあり、こ
の時に島名も大正島と改称された。このことは、一部論者の言うように、久米赤島(赤尾嶼、大正島)の日本領編入
が一九二一年であることを示しているのであろうか。しかし、そのように考えるのも不自然であり、明治二八年の閣議
決定が沖縄縣「知事上申ノ通」ニ上申に基づき行われたものであって、明治一八年、同二三年の上申が「魚釣島外
ニ島」として赤尾嶼もふくめている以上この閣議決定からとくに赤尾嶼を区別して除外する理由はない、と考えるのが
自然であろう(ただし、明治二六年の沖縄縣知事の上申は必ずしもあきらかでない)。こうして久場島(黄尾嶼)の開
拓を開始した古賀は、明治三三年五月には赤尾嶼に渡り同地に標木を建てている。赤尾嶼の国有地指定が遅れた
のは、この付近海域では帯状の黒潮が赤尾嶼を包含した形で過流状の潮流となり、流速も二~三ノットの急流であ
って、通常の晴天の日ですら上陸は困難となるほどであり、しかも、見るべき資源もなく全島岩山で居住不適である
ため開拓の対象とされなかったことによるのであろう。

ところで、尖閣諸島の領域編入は、日本の其の他の島嶼の領域編入の際に用いられた「通告」とか「告示」とか「勅
令」とかの形式(これらについては、国際法事例研究会・日本の国際法事例研究(3)『領土』(一九九〇年、慶応通
信)参照)がとられておらず、また、標杭が建てられた事実も確認されていないので、不整規なものである、とされる
であろうか。

周知の通り、国際法上、先占が有効となるためには、国家が領有の意志をもって、無主の土地を実効的に占有する
ことが必要である。つまり先占の主観的要件としての国家の領有意志の表示と先占の客観的要件としての実効的
占有が問題である。領有為志は、通常、当該地域を国家の版図に編入スル旨の宣言、立法上又は行政上の措置、
他国への通告などによって表示される。アフリカの分轄に関して一八八五年のベルリン会議一般議定書第六章第三
四条が定めたように、通告を先占完成のための必須条件とする説もあるが、同議定書は調印国限りの義務を定める
ものであり、一般国際法とは言えず、パルマス島事件判決にもみられるように、通説はこれを否定する(この点につ
いては、本書の次節「竹島問題」において再論する)。通説は、通告がなされていなくとも、それ以外の手段で領有
意志が表明されておれば充分である、としている。そして、日本の領有意志は、国際判例や通説の説く意味で、確
認することができる。

実効的占有の意味については、土地の現実の使用とか定住といった物理的占有の意味に解する説と、当該地域に
対する支配権の確立という社会的占有の意味に解する説とがある。パリマス島事件判決、東部グリーンランド事件
判決、マンキエ・エクレオ事件判決等、国際判例はすべて社会的占有説を支持している。無人島の場合には、従が
って、単に此れを発見し、其の上に国旗を掲揚するなどの象徴的な領域編入行為を行っただけでは有効な先占とは
ならない。パルマス島事件判決の言うように、通説は発未成熟の権原を認めているが、実効的先占有がその後に続
かなければ領域取得は成立しない。これは一九世紀依頼の国際法である。標杭が建てられていたとしても、単にそ
れのみでは日本の先占ハ完成しない。一九世紀の国際法によれば、軍艦や公船による定期的巡視などで無人島に
は国家機能をおよぼしていなければ先占が実効的とは言えないからでる。

尖閣諸島は、先に見たように、明治二八年一月一四日に閣議決定によって日本領に編入され、同年六月一〇日、古
賀辰四郎が「官有地拝借御願」で国有地借用願を申請し、翌二九年九月に政府は、魚釣島、黄尾嶼、北小島、南小
島の四島を三十年間、開拓奨励のため、無料で古賀に貸与することを許可した。ところが、この間の二八年四月一
七日日清講和条約調印、五月八日批准書交換、そして、六月ニ日には台湾の受け渡しが完了していたのである。
確かに、尖閣諸島に対する日本の実効的支配は明らかである。そのほとんどは日本が台湾の割譲お受けた後の台
湾統治時代のものである。そのため、中国からの抗議はないものの、無主地先占をした島嶼に対する支配なのか、
割譲された地域に含まれる島嶼に対する支配なのか、必ずしも分明にすることができないかもしれない。その意味で
は、敗戦の一九四五年(昭和二〇年)八月一四日までの日本の行為は、いわば凍結され、実効的占有として意味
在る行為はせんごのものに限られてしもうかもしれない。しかし、幸か不幸か、中国が尖閣諸島の領有を争って抗議
をはじめてたのは一九七一年になってからのことでる。この点からは、いわゆるクリチカル・デ-ト

(critical date  決定的期日。其の日までの事実は国際裁判所によって証拠として採用され得るがそれいごのもの
は審査の対象にならないので、証拠許容限界期日とも訳される)を一九七一年六月一七日の沖縄返還協定調印の
日とすることができる(この点、松井芳郎葉最も適切かつ公平なクリチカル・デ-トは中国または)台湾の最初の抗議
または請求の日であろうと思われるし。それを、一九七一年二月中旬とする。

MATSUI Yosiro, “International Law of Territorial Acquisition and the Dispute over the Senkaku
(Diaoyu) Islands” The Japanese Annual International Law,

No.40(1997), p.8.)。

  それでは、尖閣諸島はそもそも明治二八年二先占の対象となる無主地であったのであろうか。中国は昔から中
国領であったとして歴代の使録等を証拠として主張する。中国の主張とその根拠については、すでに述べた検討の
通りであり、中国は中琉間の境界は赤尾島嶼と久米島との間にあると主張するが、冊封使の帰路の記述には、魚
山と鳳尾サンにつき「二山皆ゾ記台州」とか「中華外山」などもみられ、福琉間の航路上の尖閣諸島は航路目標とし
て歴代使録に記されたとみるのが自然であろう。また、中国は航路の安全のための措置等を何ら取ってこなかった
が、たとえ何らかの措置を取った証拠があるとしても、マンキエ・エクレオ事件で、フランスがマンキエにかんして水路
測量のための実地調査、灯火やブイの設置、実地調査のための暫定的な標識の設立、という事実を主張したが、こ
れに対し、国際司法裁判所は「暗礁の外測にブイを設置する等のフランスの行為はフランス政府がマンキエに対して
主権者として行為する意図をもっていたことの十分な証拠とはみなしえない。また、これらの行為は、マンキエに対す
る国家権力の表示と考えられる性質のものではない」(I.C.J.Reports 1953. p.71.)と述べており、船舶の安全に関
わる国家の行為は、通常、それに関連する島嶼にたいする領有意志とは無関係になされることが多く、主権の権原
の直接的証拠となりにくいものであり、こうしたことから推察すると尖閣諸島は無主地であったと考えられる。

 次に、仮りに、中国側の豊富な文献から押して、尖閣諸島が中国旅雲であることを明確に証明するものが今後発
見された場合でも、パルマス島事件判決が言うように、「権利の存続」とは区別しなければならない。その点、尖閣
諸島が明・清代に経済的に利用されていた事実はなく、発見から生じる原始的権原が仮りに中国にあり、その中国
の権に未成熟なものとしていまだ存在していたとしても、未成熟の権原は他の国家による継続的かつ平和的な権力
の発現には優先しない。従がって、日本の尖閣諸島に対する領域主張の根拠は、先ず、無主地先占であり、クリチ
カル・デートを一八九五年(明治二八年原が一八九五年(明治二八年)にとるにしても、これまでの民間による研究に
よrかぎりでは日本に有利に思えるが、クリチカル・デートを沖縄返還協定締結の一九七一年六月一七日にもってくる
ことにより、日本にとって実効的支配の事実の多くなる一八九五年~一九七〇年の間の行為を証拠能力あるものと
することができるので、無主地先占のほかに、代替的に、「継続的,かつ平和的な主権の発現」という権原(パルマス
島事件)を主張すべきであろう。少なくとも、中国側が沖縄返還協定締結により「返還区域」の中に尖閣諸島を組み
入れことを不法なことと非難し、中国の尖閣諸島に對する領域権の存続を主張しているかぎりで、クリチカル・デート
を沖縄返還協定締結時に設定することが当       然と思われるからである。其の場合、日本が一八九五年以
降七五年間「継続的」に、しかも、中国からのいかなる抗議も無く、つまり「平和的」に国家権能を発現してきたこと
は、十ニ分に立証されるであろう。

   しかし、尖閣諸島が無主地でなかったとして、もし下関条約によって台湾等と一緒に日本に割譲されたのであ
ればパルマス島事件で、マックス・フーバー判事が「継続的かつ平和的な主権の発現」と呼ぶ終局的権原を論じる
余地はない。より明瞭な割譲という権原に座を譲ったことになるからである。尖閣諸島は本当に下関条約の台湾付
属諸島嶼の中に含まれていなかったのであろうか。

   明代、清代の福建省や台湾省の地方志によれば、各行政範囲に尖閣諸島が見あたらないことについて、すで
に言及した。下関条約は明治二八年五月八日に批准書が交換され、同条約五条により、六月ニ日、日本側全権委
員か樺山資紀と清国側全権委員李徑方との間で「台湾受渡ニ関スル公文」に署名され、この折、日本側水野弁理
公使と清国側李経全権委員の間で、台湾付属諸島嶼の範囲について、次のような会話が交わされた(伊能嘉矩『台
湾文化志』下、九三六―七頁)。



   李「台湾附属島嶼とあるその島嶼の名目を目録中に挙ぐるの必要なきか。何となれば平和条約中には澎湖列
島の区域は経緯度を以って明瞭にせられあるも、台湾の所属島嶼については、これらの区域を明らかにすることな
し。故に若しも後日福建省附近に散在する所の島嶼を指して、台湾附属島嶼なりと謂ふうが如き紛議の生ぜんを懸
念すればなり。」

   水「閣下の意見の如く各島嶼の名称を列記するときは、若し脱漏したるものあるか、あるいは無名島の如きは、
何れの政府ノ所領にも属せざるに至らん。是不都合の一点なり。また海図及び地図等にも、台湾附近の島嶼を指し
て台湾所属島嶼と公認しあれば、他日日本政府が福建近傍の島嶼までも台湾所属島嶼なりと主張する如きこと決
して之なし。小官は帰船の上、この事を特に樺山総督閣下に陳述し置くべし。況や福建と台湾との間に澎湖列島の
横たわりあるにおいてをや。閣下の遠慮は全く杞憂に属するならん。」

   李「肯諾」



明治二九年までに日本で発行された台湾に関する地図、海図の類は、例外なく台湾の範囲を彭佳嶼までとしてお
り、台湾受渡しの時に問題となった「海図及び地図等で公認しある台湾所属島嶼」に尖閣列島が含まれないことは、
日清双方の一致して認めるところであった。





  4  最終的解決までの扱い

 紛争の解決の進め方について、係争中の島を現に占有しているのがどちら側にあるかによって限り、尖閣諸島の
場合には占有しているのは日本であり、最終定解決に至るまで   の間、日本は要スルに占有をそのまま維持す
ればよく、ことさら占有を強化する必要はない。

さて、ニ〇年前、日中平和友好条約締結交渉が行われていた一九七八年四月一二日の早朝、尖閣諸島の領海内
に多数中国漁船が出現し、折から再開された日中平和友好条約交渉が一時的に頓挫したことはまだ記憶に新し
い。このときは一五日になって耽颱副首相が「尖閣事件は偶発的なもの。この小さな島のことは解決を将来にゆだね
たあ方がよい」と語り、中国漁船はすべて尖閣領海外に退去した。其の後、交渉は北京で再開され、八月八日の園
田相の北京入り、九日鄧小平副首相との会談を経て、一二日に日中平和友好条約が調印された。調印後の記者会
見の園田外相冒頭発言で、「なお、尖閣諸島の問題に関しましては、一〇日午後の私と鄧小平副首席との会談にお
いて私が日本政府の立場について述べたのに対し、中国側は中国政府として再び先般の事件のような争いを起す
ことはないと述べました。」と述べられた。鄧発言についてあh国会における条約審議のなかでも度々取り上げられ、
一〇月一三日の衆院外務委員会では「私の方から・・・・・尖閣列島に対する日本の立場を述べ、この前のような事
件があっては困る、今後ああいう事件は絶対にやらないようにという強い要請をいたしました。これに対して鄧小平副
主席は、このまえの事件は偶発であって、今後あのような事件は絶対にやらない、こういう話でした」(園田外相、第
八五国会・衆外委一号)と述べられ、翌一四日には「鄧小平副主席は、この前のような事件は、あれは偶発事件で
あるが今後は絶対にやらないと公式の会談で明言されたわけであります。これは議事録に載っておりますから、ああ
いう事件は今後はないと存じます」(同二号)と述べられている。

尖閣諸島の領有権については、日中平和友好条約の批准書交換のめ一〇月二二日から二九日まで来日した鄧小
平副主席は、日本プレスセンターで内外記者会見を行い、「中日国交正常化の際も、双方はこれに触れないことを約
束そた。今回の平和友好条約締結交渉の際も同じくこれに触れないことで一致した。・・・・・・・両国政府が交渉する
際は、この問題をさけることがいいと思う。こういう問題は一時タナ上げにしてもよい。一〇年タナ上げしてもかまわな
い。・・・・・・」と述べている。こうした中国側の領土問題暫時棚上げ方針は、日本にとっては幸いである。

ところが、翌七九年一月一六日、森山運輸相が記者会見で「中国と領有権をめぐって最終的決着がついていない沖
縄・尖閣列島に施設をつくるため沖縄開発庁が五四年度に調査を始めるので、海上保安庁はこれに協力するため同
列島魚釣島(無人島)に仮のへリポートをつくる方針で沖縄開発庁と協議する」と述べ、これを契機に第八七回国会
で再び尖閣諸島の領有権問題がとりあげられ、三千万円の調査費やヘリポート建設問題にからんで、園田外相は
「静かに現在の有効支配を続けることが日本の実益のためにいいことでると考えております。しかし、今度のへリポ
ートが地域の住民なり、漁民の避難場所であるとか、安全のためにつくられるというおとならばなるべく刺激しないよ
うにやるべきであって、これが有効支配の誇示のためにやることであれば大変なことである」(衆内委、第一四号二
三頁)と述べ、さらに、日本の領土であるが、挑発的行動は好ましくない(衆外委、第一三号、五月三〇日、三〇頁)
と答弁した。しかし,五月二九日には沈平中国外交部アジア局長が駐中国日本大使館の伴臨時代理大使を中国外
務省に招き、口頭で遺憾の意を表明するに及んだ。沈平アジア局長の申し入れを報じた二九日新華社電の全文は
次の通りである。

  中華人民共和国外交部アジア指令長沈平は、本日午前、中華日本臨時代理大使伴正一と会見し、日本政府が
最近巡視船「宗谷号」を派遣し、人員及び機材を中国の釣魚島に運び仮ヘリポートを設置し、また調査団、測量船を
派遣していることについて」話し合いを行った。

魚釣島等の島嶼は,古来より中国の領土である。一九七一年一二月三〇日、中国外交部はこれについて声明を発
表した。しかしながら、中日双方には魚釣島等の島嶼の領土帰属問題において意見の不一致がある。中日国交正
常化及び平和友好条約の締結の際、双方は中日友好の大局的見地よりこの問題をそのままにしておき、将来解決
することに同意した。

これに基づき沈平司長は「日本側は明らかに双方の間の上述の了解にそむいている。われわれは日本側の行為に
対し遺憾の意を表明せざるをえないし、またこの行為が法律上の価値を有するとは認めないことを声明する。」と指摘
した。

沈平はまた、「われわれは、日本政府が大局的見地より両国の指導者が魚釣島問題について達成した了解を守り、
両国友好と善隣協力関係を損なう一切の行為を制止するよう措置をとることを希望する。」旨表明した。

この抗議申し入れについて、園田外相は「少なくとも相手が抗議を申し入れたことは、こえが有効支配の誇示的行動
であると受け取られたものであると理解せざるを得ません」と答弁しており(五月三〇日、衆外委。第一三号三〇
頁)、少なくとも政府は、静かに現在の占有をそのまま維持し続けるというのが日本にとっては最上の策である、考
えているように思える。ただその際考慮すべきことは、前述のよう、マンキエ・エクレオ事件においてフランス側が水
路測量のための実地調査、灯火やブイの設置、実地調査のための暫定的な標識の設立などの行為を主張したのに
対し、国際司法裁判所が「暗礁の外測に設置する等のフランスの行為がその性質上マンキエに対する国家権力の
表示とは考えられない」と判示しており、単なる船舶の安全に関する行為のみでは、充分とはいえないことである。も
っとも、ノルエーとスエーデンが両国間の南部領海の境界を争ったグリスバダルナ事件では、標識の設置、海域調
査、燈台船の配置などをスエーデンが単に権利の行使としてのみならず、「義務の履行」としt行うと考えて行為して
きたのに対し、ノルウェーがこうした点に関し同海域にはほとんど何の関心も示さなかったことも理由となって、グリス
バダルナの浅瀬が裁判所によってスエーデンに帰属させられたことを忘れることはできない。

従がって、げんざいの占有を維持し、ことさらに強化する必要がないというのは、以上のことから、尖閣諸島に対して
領域主権をもっているので権利行使として何かを行うというよりも、現在の日中関係すれば、自国領域いじの観点か
ら、業務履行としての種々の行為を行うということであって、南西諸島施政権が日本に返還された昭和四七年(一九
七二年)五月一月一五日以降、海上保安庁が尖閣諸島を含む沖縄周辺において巡視船および航空機によるパトロ
ールを行い、領域侵犯・不法漁撈の取締りを行っていること等の行為の継続が今後も望まれるのである。その意味
では、近年の中国人民間運動家による海上デモとか強行入域に対する警戒や退去要請などは妥当な措置である。
なお、クリチカル・デート後の国家行為は証拠として許容されないで、一九七二年の台湾による尖閣諸島の編入措置
とか、尖閣諸島を自国領とする九二年の中国の領海および接続水域法などは国際法的に意味のある行為とはなら
ないが、民間人の行為といえども放置することは望ましくないからである。









誤字脱字等の間違いの責任は全て筆者に存す

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