2010年2月25日木曜日

韓国による于山島史料の作為抽出と記録の遡及 opp7

  韓国による于山島史料の作為抽出と記録の遡及 | 伝統

  No.54063 投稿者: oppekepe7 作成日:2006-07-03 22:30:10 閲覧数:737



  いつ完成するかわからないHP用に作成中。韓国語版は機械翻訳のため精度は保障しない。
  問題点及び課題があればご指摘下さい。

    oppekepe7 07-03 22:02
   ん。早速太宗実録の編纂年が間違ってた。

   oppekepe7 07-03 23:06
   世宗実録地理誌から三国史記は300年遡及だったな。



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地誌提要に見る明治初期の大分県

http://www.pref.oita.jp/11103/tayori/01-2.htm

http://www.pref.oita.jp/11103/tayori/02-3.htm


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なぜ外一島の明瞭化が必要なのか  take_8591

re6a)なぜ外一島の明瞭化が必要なのか 2008/ 4/25 8:49 [ No.16498 / 16501 ]

投稿者 : take_8591



  http://www.enjyuku.com/d2/i_006.html
  に、意思表示は、次のように説明されています。
  ------------------------
  一定の法律効果を欲するという意思を外部に表示することである。意思表示は次の3つの部分から構成される。
   1:内心的効果意思=具体的にある法律効果を意欲する意思のこと。例えば店頭で品物を買おうと意欲する意思が内心的効果意思である。
   2:表示意思=内心的効果意思にもとづいて、その意思を表示しようとする意思のこと。例えば、店頭で品物を買うために、店員にその旨を伝えようとする意思である。(なお表示意思を内心的効果意思に含める考え方もある)
   3:表示行為=内心的効果意思を外部に表示する行為のこと。例えば、店頭で品物を買うために、店員にその旨を告げることである。
  ------------------------

  日本の民法では、内心的効果意思は法律効果を生じないとされています。国際法も同様で、領有権を確立させるには、公告とか実効支配等の「外に現れた意思」が必要とされています。
  1877年に太政官が「竹島外一島を版図外とする」旨の決定は、それだけで「領有権の放棄」にはなりません。天城の調査を経た後の1883年の「鬱陵島渡海禁止令」によって始めて鬱陵島の「領有権が放棄」されることになります。
  そもそも、1905年の竹島編入の閣議決定に効果を認めず、韓国への告知が無かったと主張している方が、同時に「外一島とはどこか」を論じているのは矛盾します。

  又、「外一島」とは何なのでしょうか。外一島が松島であるとの「内心的効果意思」を持っているなら、松島と明記する筈です。それを「外一島」とするのは、未だ特定していないからであり、その特定を指令の具体化に伴う官僚の判断に任せるという意味を持っています。そして、1883年に「外一島」はアルゴノート島又はチェクトとして具体化されたのかもしれません。


  さて、外務省は韓国の通信社から「外一島はどこか」旨の質問を受けました。係争国の通信社が、過去の「内心的効果意思」の明瞭化を求めるというのは無理な話です。又、この明瞭化は何の法律効果も生みません。具体的な「表示行為」を示してから質問するべきです。そして、具体的な「表示行為」を示めせないと推定でき、質問の趣旨が理解できないので、「まだ調査中」との回答しかできなくて当然です。



re6a)外務省の主張がお分かりでない 2008/ 5/ 1 7:20 [ No.16519 / 16520 ]

投稿者 : take_8591


 Q 次の文章の最後に「竹島を領有する意思を再確認しました」とありますが、最初に「竹島を領有する意思を確認した」のは何時でしょうか ?

  日本は古くから竹島の存在を認識していました。
  日本は、鬱陵島に渡る船がかり及び漁採地として竹島を利用し、遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。
  日本は、17世紀末、鬱陵島への渡航を禁止しましたが、竹島への渡航は禁止しませんでした。
  日本政府は、1905年、竹島を島根県に編入して、竹島を領有する意思を再確認しました。

 A 「遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。」とありますから、最初に竹島を領有する意思を確認したのは「17世紀半ば」です。
  --------------------------------------

  上の質問は、私立中学入試には出題されない程にレベルの低い問題とと思います。
  しかし、世界には多くの人がいますから「それは一体いつなのか首をひねりたくなります(No.16502)」と捉える人がいても不思議ではありません。そして、この方に対して「日本語がお分かりにならない ?」と評価するでしょう。尚、「明治時代に確認を求めているのでしょうか(No.16502)」との疑問が生ずる文章ではありません。明治初期に関しては全く触れていないからです。


  半月城さんの日本語読解力を小学生レベルと仮定します。
  すると、納得できる面が多々あります。
  例えば半月城さんは[ No.16105 ]において、「日本地誌提要」及び「地学雑誌の田中阿歌麻呂の論文」を掲げて外務省を批判していました。そこで、私は[ No.16134 ]を投稿し、次の批判をしました。
  ① 『日本地誌提要』が日本の領土外と断定しているというが、竹島・松島は「本州の属島外」であるけれども、「本州の島嶼内」であると記されています。
  ② 『地学雑誌』200号に、「明治初年に到り、正院地誌課にてその島(竹島=独島)が本邦の領有を完全に非認した」と記されているので、明治政府が両島を日本の領土外と断定しているというが、田中阿歌麻呂は地学雑誌210号で、「本誌200号に掲げた記事は、全く竹島の記事に非ずして、鬱陵島の記事なるが如し。」と半月城さんが紹介した記事を訂正しています。
  この2点は誤読の生ずる余地の無いものですが、半月城さんは、[No.16503]で同じ主張を繰り返しています。この現象を、恣意的な誤読と評価する方もいますが、「日本語読解力を小学生レベル」としても納得できます。


  外務省の見解は、「開国以前の日本には国際法の適用はないので、当時にあっては、実際に日本の領土として取り扱い、他の国がそれを争わなければ、それで領有するには十分であったと認められる(No.16447)。」というものです。
  これを上記主張に当てはめると、17世紀半ばに確立した現竹島の領有権は、1696年に朝鮮は争わず、1882年にも朝鮮が争っていませんから、「他の国がそれを争わなければ、それで領有するには十分であったと認められる」のです。
  ただし、この領有権は「竹島を領有する意思を再確認」しなければならない程度に不確かなものでした。故に、1905年、竹島を島根県に編入して、竹島を領有する意思を再確認しました。


  ですから、半月城さんの次の見解は誤読です。
  --------[ No.16504 ]-----------------------
  閣議決定書・・・は竹島=独島を無主地と判定し、国際法上の先占理論にのって竹島=独島を日本領とする閣議決定したのでした。無主地という明治政府の判断は「固有領土」の主張に矛盾することは言うまでもありません。
  ------------------------------------------



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日露戦争と日韓議定書と竹島   take_8591 opp

re6a)日露戦争と現竹島 2008/ 4/21 21:14 [ No.16483 / 16494 ]

投稿者 : take_8591


  日露戦争(日本海海戦)は、「バルチック艦隊を全滅させなければ日本の負け」という史上稀な命題を負わされた戦争でした。この時、現竹島が果した(果すべき)役割は小さなものではありませんでした。それは次の頁等で報告されています。
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-territory-annexations.html
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-territory-annexations2.html
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-territory-annexations3.html
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-ulsan-tsushima.html
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-ulsan-tsushima-2.html

  しかし、上のURLでも明らかなように、監視搭が建てられたのはリャンコ島だけではなく、鬱陵島にも建てられました。この鬱陵島の監視搭は日本軍が勝手に建てたものでした。仮にリャンコ島が朝鮮領であったとしても、軍事施設は日本軍が勝手に建てられるものでした。日露戦争の遂行の為にであればリャンコ島の編入は必要ありません、リャンコ島を「臨検収用」すればよいのです。もしかしたら、朝鮮に事後連絡が必要であったかもしれませんが、事後連絡等の必要性を説いたweb頁を未だ知りません。

  すると、「肝付はリヤンコ島が朝鮮領であることを知ったうえで、日露戦争を有利に遂行するため、竹島=独島に望楼を築いてロシア艦を監視するという軍事利用に協力すべく、同島の「領土編入」を後押しした人物でした。その目的のためにウソも方便でリヤンコ島を「無主地」と強弁したとみられます。[No.4629]」というような非常な覚悟をする必要は無いのです。
  しかも、肝付兼行・牧朴眞・山座円次郞という3人もの者が、自分の認識とは異なる「目的のためにウソも方便」をしたと言うのです。
  この中井氏の前に現れた3人の官僚が揃って気骨の無い官僚であったなら、日露戦争に勝利することは出来なかったと思います。



日韓議定書(明治37年2月23日)
 第四条 
  (一)第三国の侵害により、もしくは内乱の為、大韓帝国の皇室の安寧あるいは領土の保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は、すみやかに臨機、必要の措置を取るべし。しかして大韓帝国政府は、右大日本帝国の行動を容易ならしむる為、十分便宜を与うる事。
  (二)大日本帝国政府は、前項の目的を達する為、軍略上、必要の地点を臨検収用することを得る事。



竹島の望楼は舞鶴鎮守府所管    2008/ 4/21 23:32 [ No.16486 / 16494 ]

投稿者 : henchin_pokoider01


鬱陵島も含めて韓国に建設された望楼は佐世保鎮守府所管
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/mosd-chiyoda496/16.jpg
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/mosd-chiyoda496/11x.jpg
所在の住所にも「韓國」が明記されている。

竹島の望楼は舞鶴鎮守府所管
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/mosd-chiyoda496/27.jpg
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/mosd-chiyoda496/14x.jpg

日本軍が竹島を韓国領と考えていたとは思えないな。



re6a)日韓議定書のリャンコ島 2008/ 4/23 8:47 [ No.16493 / 16494 ]

投稿者 : take_8591


  1614年に、日本と朝鮮は鬱陵島の領有を主張しあい、結論に至りませんでした。

  1667年に、日本(徳川幕府)は鬱陵島の領有を主張した後に、鬱陵島への渡海を禁止してこの事を朝鮮に連絡しました。
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/011.jpg
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/012.jpg

  1883年に、日本(明治政府)は鬱陵島への渡海を禁止して、この事を朝鮮に連絡しました。
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui97/2.jpg
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui97/3.jpg

  これら事実により、日本政府は、「鬱陵島に3度日本の侵略を受けたが何れも撃退した」という朝鮮政府の認識を知らなければなりません。
  しかし、リャンコ島は鬱陵島より日本側にありますから、朝鮮政府がリャンコ島の存在を知らなかった場合、日本がリャンコ島は日本領という認識を形成するのに問題はありません。又、朝鮮政府がリャンコ島を朝鮮領と考えていたとしても、その意思が明示的に表示されたことはありませんから、日本がリャンコ島は日本領という認識を形成するのに問題はありません。100kmも離れた島を鬱陵島の属島と認識しているかも知れないという注意義務が日本に無いからです。

  そして、1904年日韓議定書第3条に「大日本帝国政府は、大韓帝国の独立及び領土保全を確実に保証する事」とありますが、ここにリャンコ島が大韓帝国の領土であるという認識の存在を認められませんから、大日本帝国政府は第3国のリャンコ島侵略を日韓議定書に基づき撃退する義務はありません。
  すると、1905年のリャンコ島編入に際して、少なくとも韓国に対してだけは告知する義務が無かったといえます。

  更に、1906年島根県は、リャンコ島編入を朝鮮に連絡します。この時、大韓帝国は日本政府に抗議をしませんでした。仮に、日韓議定書のいう「大韓帝国の領土」にリャンコ島が含まれているとするならば、不可解な行動といわざるを得ません。この日韓議定書違反は、明らかに朝鮮侵略を意味しているからです。当時の大韓帝国に「他の事で忙しく、無人島の領有を争う暇が無かった」と言い訳できるほどに忙しかった他の事はありません。
  http://take8591.web.fc2.com/06web/9100etc/080417/820.htm
  http://take8591.web.fc2.com/06web/9100etc/080417/830.htm
  すると、日韓議定書のいう「大韓帝国の領土」にリャンコ島が含まれていなかったと確認できます。



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1905年の閣議決定   take_8591

re6a)1905年の閣議決定 2008/ 4/21 20:33 [ No.16481 / 16494 ]

投稿者 : take_8591



 http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui981-1905/

  明治38年1月28日
  別紙内務大臣請議無人島所属に関する件を審査するに、
  右は北緯37度9分30秒東経131度55分、隠岐島を隔る西北85浬に在る無人島は、他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく、
  一昨36年、本邦人中井養三郎なる者に於て、漁舎を構へ人夫を移し猟具を備へて海驢猟に着手し、今回領 土編入並に貸下を請願せし所、
  此際所属及島名を確定するの必要あるを以て、該島を竹島と名付け、自今島根県所属隠岐島司の所管と為さんとすと謂ふに在り。
  依て審査するに、明治36年以来中井養三郎なる者が、該島に移住し漁業に従事せることは関係書類に依り明なる所なれば、国際法上占領の事実あるものと認め、之を本邦所属とし、島根県所属隠岐島司の所管と為し差支無之儀と思考す。
  依て請議の通り、閣議決定相成可然と認む。


  この閣議には、次の資料が付されていました。
  一、中井養三郎より請願書
  一、水路部長の回答
  一、外務、農商務、両次官、並びに島根県知事の回答

  この内、「中井養三郎より請願書」は、「リャンコ島領土編入並びに貸下願」として外務省のHPにありますが、他の2つの資料を私は探し出せません。



re6a)他国の占領が認められない 2008/ 4/21 20:53 [ No.16482 / 16494 ]

投稿者 :
take_8591



  中井氏の履歴書は、半月城通信に次のとおりです。
  http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html

 「本島の鬱陵島を付属して韓国の所領なりと思はるるを以て、将に統監府に就て為す所あらんとし上京して種々画策中、時の水産局長牧朴眞の注意に由りて必らずしも韓国領に属せざるの疑を生じ、其調査の為種々奔走の末、時の水路部長肝付将軍断定に頼りて本島の全く無所属なることを確かめたり。
 依て経営上必要なる理由を具陳して、本島を本邦領土に編入し且つ貸付せられんことを内務外務農商務の三大臣に願出て、願書を内務省に提出したるに、内務当局者は此時局に際し韓国領地の疑ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの疑を大ならしむるは、利益の 極めて小なるに反して事体決して容易ならずとて、如何に陳弁するも願出は将 に却下せられんとしたり。
 斯くて挫折すべきにあらざるを以て、直に外務省に走り、時の政務局長山座円二郎氏に就き大に論陳する所ありたり。氏は時局なればこそ其領土編入を急要とするなり、望楼を建築し無線若くは海底電信を設置せば敵艦監視上極めて 届竟ならずや、特に外交上内務の如き顧慮を要することなし、須らく速かに願書を本省に回附せしむべしと意気軒昂たり。此の如くにして、本島は竟に本邦領土に編入せられたり」
  -------------------------

  上記「時の水路部長肝付将軍断定に頼りて本島の全く無所属なることを確かめ」を受けて、半月城さんは[No.4629]で次のように述べます。
  軍人である肝付兼行水路部長はリヤンコ島(竹島=独島)を「無主地」のごとく中井に回答したようですが、実はこの人こそ同島を朝鮮所属と判断し、それを『日本水路誌』でなく『朝鮮水路誌』に入れて刊行した責任者でした。
  肝付はリヤンコ島が朝鮮領であることを知ったうえで、日露戦争を有利に遂行するため、竹島=独島に望楼を築いてロシア艦を監視するという軍事利用に協力すべく、同島の「領土編入」を後押しした人物でした。その目的のためにウソも方便でリヤンコ島を「無主地」と強弁したとみられます。
  -------------------------

  又、堀和生氏は、「1905年日本の竹島領土編入」において、「日本海軍の『朝鮮水路誌』1894年と99年版には、鬱陵島と並んでリアンコール列岩が載せられている。つまり、19世紀末に、日本海軍の水路部当局が竹島=独島を朝鮮領だと認識していたことは、疑いのないところである。(106頁)」と述べています。


  しかるに、「水路部長の回答」を1905年の閣議決定の資料にしたというのです。これは矛盾しているように見えます。
  そこで実際の朝鮮水路誌を見てみると、逆に、リャンコ島が朝鮮領でないことを明らかにしていたのです。ここに矛盾はありません。半月城さんと堀和生氏の指摘が間違っていたのです。
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/hydrograph1894/
  朝鮮国は亜細亜の東部にあり 其地勢たる狭長なる一大半島を成し 数多の島嶼 之を圍繞す 其位置は北緯33度15分より同42度25分 東経124度30分より同130度35分に至る・・・
  鬱陵島(一名松島)・・・而して其中心北緯30分東経130度53分に、・・・
  -------------------------
  朝鮮の東限は東経130度35分であり、鬱陵島が朝鮮の東限の東にあると記されています。これにより、「他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく」は、「水路部長の認識」が示されている「朝鮮水路誌」に明らかであると言えます。


  牧朴眞は、1903年の『韓海通漁指針』に発刊の辞を書いています。山座円次郞は、1904年の『最新韓国実業指針』に序文を書いています。(両著共に、リャンコ島を江原道の項で説明しています。)この様に朝鮮通のお二人ですから、その版図を熟知し、勅令41号も知っていたと思われます。それでも、リャンコ島編入を積極的に勧めたというのです。「他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく」は、朝鮮通のお二人がリャンコ島編入を積極的に勧めたことでより確かなものになります。


  すると、「外務、農商務、両次官、並びに島根県知事の回答」を捜査するまでも無く、「他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく」が明らかです。



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半月 1905年に領有する意思を再確認

外務省パンフレットへの批判6、(1) 2008/ 4/27 17:08 [ No.16502 / 16505 ]

投稿者 : ban_wol_seong


6.大韓帝国勅令と島根県告示

  外務省のパンフレット曰「6.日本政府は、1905年、竹島を島根県に編入して、竹島を領有する意思を再確認しました」

  外務省が「再確認」と強調するからには、以前にも「竹島を領有する意思」を確認したことがあるはずですが、それは一体いつなのか首をひねりたくなります。現在の外務省はいざ知らず、50余年前の外務省は幻の「松島(竹島=独島)渡海免許」を信じていたので、前回の確認とは数百年前の、幻の渡海免許を指すのでしょうか? それとも時代がくだって明治時代に確認を求めているのでしょうか?

  もし前者ならまったくお話になりません。川上健三がとなえた幻の松島渡海免許は、最近では塚本孝氏や池内敏氏などによりことごとく否定されました。つぎに、後者の可能性ですが、50余年前の外務省はこう主張しました。
       --------------------
  当時(明治時代)の外務省では、松島という島の開拓願いの提出に際し、この島がいかなる島を指すかを明らかにするため視察を行なう必要があるかどうかを検討していた。
 (途中省略)
  渡辺記録局長は、「このいわゆる松島なるもの、竹島(今の鬱陵島)なれば彼に属し、もし、竹島(今の鬱陵島)意外にある松島なれば われに属さざるをえざるも・・・その松島「デラセ」島なるものは本来、竹島すなわち鬱陵島にして、わが松島なるものは洋名「ホルネットロックス」なるがごとし、・・・このホルネットロックスのわが国に属するは各国の地図みな然り」、「旧幕府無事を好むより・・・竹島(今の鬱陵島)をもって・・・朝鮮に譲渡せりといえども 松島(今の竹島)は竹島(今の鬱陵島)よりわが近き方にあれば、日本に属し、朝鮮また異論ある能わず」と述べ、視察の結果、この松島が鬱陵島と別物ならば、因幡、隠岐、石見などに帰せざるを得ずという見解を示していた。

  明治13年9月、軍艦天城が赴いて実際にこの島を測量した結果、問題の松島は鬱陵島そのものであり、鬱陵島付属の島に竹嶼があることが明確にされた。
  松島開拓願いの審議に際して明らかなことは、明治初期においても日本国政府が竹島を日本固有の領土として認識し、その上に立って議論していたことである(注1)。
  (注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両国政府の見解」『レファレンス』2002.6月号、P58
       --------------------

  50余年前の外務省は、明治政府も「竹島を日本固有の領土」と認識していたとする根拠を、単に外務省の一局長の見解においていたようです。ところが、その渡辺洪基局長の地図などに関する見解が噴飯ものであることはすでに書いたとおりです(注2)。
  (注2)半月城通信<外務省内の「竹島・松島」島名混乱と結論>

  そうした見解を主柱にして外務省は「固有領土」の証明をしたと考えているようですが、これは我田引水もはなはだしいようです。というのも、当時の決定的な資料については何も語らず、史料の恣意的な選択をおこなって「固有領土」の結論を出したからです。



外務省パンフレットへの批判6、(2) 2008/ 4/27 17:09 [ No.16503 / 16505 ]

投稿者 : ban_wol_seong



  そうした見解を主柱にして外務省は「固有領土」の証明をしたと考えているようですが、これは我田引水もはなはだしいようです。というのも、当時の決定的な資料については何も語らず、史料の恣意的な選択をおこなって「固有領土」の結論を出したからです。

  ちなみに、外務省が今でも語ろうとしない明治時代の重要史料は下記のとおりです。

(1)外務省報告書 朝鮮国 交際始末 内探書(注3)
 報告書中に「竹島松島 朝鮮附属に相成候始末」と題する一文があります。
  (注3)朝鮮国 交際始末 内探書

(2)太政官・正院地誌課『日本地誌提要』(注4)
 『日本地誌提要』は地理担当当局による官撰地誌なので、そこに竹島=独島がどう扱われたのかは非常に重要です。同書は、隠岐の小島179を「本州の属島」と記し、それ以外に竹島・松島があると記しました。この記事から明治時代の地理学者・田中阿歌麻呂などは竹島・松島が日本領でないと解釈しました。この官撰地誌でも竹島・松島が一対の扱いになっていることは重要です。
  (注4)『日本地誌提要』巻之五十、「隠岐」

(3)内務省地理局『磯竹島事略』、『礒竹島覚書』(注5)
 両書の記述はほとんど同じで、江戸時代の「竹島一件」の顛末を網羅しました。両書は内務省が竹島・松島を日本の版図外と判断した基礎資料として重要です。
 両書はもちろん鳥取藩の「竹嶋之書付」なども所載しました。この史料で竹島・松島が鳥取藩をはじめとしていずれの藩にも属さないことや、幕府が松島(竹島=独島)の存在を知らなかったことなどが明白です。
  (注5)磯竹島事略 乾 (PDF 524KB)  磯竹島事略 坤 (PDF 381KB)

(4)太政官「竹島外一島」版図外指令(注6)
 1877年、内務省は地籍編纂事業において問題になった竹島・松島は日本領でないと判断しましたが、版図の取捨は国家の重大事なので、念のために太政官の裁可を仰ぎました。その内務省の伺書中に「磯竹島略図」がありますが、同図からも松島は現在の竹島=独島であることが明瞭です。
 太政官は内務省の伺書どおり、竹島(欝陵島)および外一島である松島(竹島=独島)を版図外と決定する指令を2週間後に発令しました。
  (注6)太政官「竹島外一島」版図外指令


(5)内務省地理局の官撰地図(注7)
 国土や領土の担当機関である地理局が作成した官撰地図において、竹島・松島は一時期を除いて日本領として扱われませんでした。1905年以前における明治時代の官撰地図は下記のとおりです。
(A)1867年「官板 実測日本地図」、幕府出版(1870年に明治政府の開成学校から再版)
(B)1879年「大日本府県管轄図」、内務省地理局出版
(C)1880年「大日本国全図」、同上
(D)1881年『大日本府県分轄図』、同上(1883年に改訂版)
  (注7)半月城通信<証拠としての竹島=独島地図、舩杉氏への批判>

 これらの官撰地図で竹島=独島が含まれるのは、(D)『大日本府県分轄図』中の極東図である「大日本全国略図」のみです。ただし『大日本府県分轄図』中の島根県など各府県図に竹島=独島は描かれませんでした。これ以外の地図に竹島=独島はまったく描かれませんでした。
 なお「大日本全国略図」において、初版では竹島・松島は山陰道と同色に彩色されましたが、これは作成者の無知による誤りと思われ、改訂版では訂正され無彩色にされました。すなわち、この訂正は竹島=独島は日本領外としたことを意味します。


  上記のように、地理担当当局の官撰地図や官撰地誌、あるいは国家最高機関である太政官の指令などは、ことごとく竹島=独島を日本領でないとして扱いました。パンフレットは、このような明治時代の公的な史料に素知らぬふりをして、竹島=独島を日本の「固有領土」と強弁し続けているようです。
 「固有領土」の主張が無理であることは、今回パンフレットが写真で公開した閣議決定書からも明らかです。同書は竹島=独島を無主地と判定し、国際法上の先占理論にのって竹島=独島を日本領とする閣議決定したのでした。無主地という明治政府の判断は「固有領土」の主張に矛盾することは言うまでもありません。



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安龍福って何者?    take_8591

re5)安龍福って何者? 2008/ 4/23 8:53 [ No.16494 / 16494 ]

投稿者 : take_8591



 粛宗実録 1696-09-25
  欝陵子山島等、定以朝鮮地界、至有関白書契、而本国不有定式、今又侵犯我境、是何道理云、
  (安龍福は、隠岐島主と面談し)、「鬱陵島・于山島を以って朝鮮の地界と定めた関白の書契ある。日本では徹底していない。今また越境侵犯事件が起きた。これにどういう道理があるのか。(島根藩にこの道理を問うため来日した。」と答えた。)
  吾将上疏関白、歴陳罪状、島主許之、遂使李仁成、構疏呈納、
  (安龍福は、島根藩主と面談し)、「自分としては関白に上疏し、(対馬藩の)罪状を歴陳したい」と要求した。島根藩主が許したので、李仁成に上疏文を書かせた。

 粛宗実録 1697-02-14
  去秋貴國人有呈單事、 出於朝令耶?
  (対馬藩が問う)去秋に貴国人が単子(上疏文)を呈じたが、これは朝廷の命令であるか?
  至於漂風愚民, 設有所作爲, 亦非朝家所知,
  (大臣が答える)漂風愚民がしたことであり、朝廷の知るところではない。

  粛宗実録で認められる史実は、
  ①安龍福は、鬱陵島・于山島が朝鮮領であると主張し、上疏文を差し出した。
  ②この事は、対馬藩の知るところとなり、詰問を受けた。
  ③安龍福の事は朝廷とは関係ない。と答えた。


  ところが、「東国文献備考(1770年)」「万機要覧(1808年)」に次のようにかかれるようになります。粛宗実録では安龍福の功を認めていないのに、「皆龍福功也」となってしまったのです。
  倭至今 不復指 鬱陵爲日本地、皆龍福功也。
  日本が今に至るまで、鬱陵島は日本の地だと主張できないのは、すべて安龍福の功績だ。


  そして、戦後の韓国では万機要覧史観が更に歪められ、安龍福は独島を守った英雄になります。
  この論理は、上記の粛宗実録から①の事実をのみ認めこれを前提において、これを補完するものとして②の事実を捉え、③の事実は考慮しないというデタラメなものでした。


  ところで、1696年の春に安龍福が来日します。しかし、竹島渡海禁止の決定は、1696年の正月に為されたものです。安龍福の行動は領土問題とは何の関係もありません。又、安龍福の于山島認識というのは「漂風愚民」の認識であり、かかる人物の認識は領土問題とは何の関係もありません。
  どうして、安龍福が議題にあがるのでしょうか。私には理解できません。



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エストッペル違反です   henchin_pokoider01

Re: 外務省パンフレットへの批判5、(2) 2008/ 4/23 2:07 [ No.16492 / 16494 ]

投稿者 : henchin_pokoider01


>安龍福のこの供述に対し『粛宗実録』は何のコメントを加えずに記述したので
>すが、韓国政府はこれをほぼ事実と認める旨の書簡を日本へ送りました。

朝鮮政府が安龍福の呈書の話を「妄作」とする旨の公式の書簡を日本に送ってますからな~。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04c.data/shiryou-4-1-8.pdf
のp201。
安龍福が見た于山島が、竹島でも鬱陵島でも隠岐なのか関係なく、前言を翻した時点でエストッペル違反ですな~。



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史実に基づく詭弁   husenoyaji

Re: 外務省パンフレットへの批判5、(2) 2008/ 4/22 21:29 [ No.16491 / 16494 ]

投稿者 : husenoyaji



こういうのを史実に基づく詭弁と言うのです。

(1)安龍福は 1696年に欝陵島から竹島=独島を経由して来日したことにより、竹島=独島の位置などを当時の水準でほぼ正しく認識していた。

方位も距離も違います。半日(それも好意的に長く取ったらの話し)で到達できる距離ではありません。
北東と南南東は違います。
島が大きいと言うのも違います。
これだけ怪しい記述を事実と認定するのは紛れもない飛躍です。

(2)かれは、欝陵島は竹島であり、竹島=独島は子山島で日本で松島と呼ばれていると明確に認識していた。

一般的には、認識というのは、なにかある事実を脳内が反映することを言います。正確に言うなら、そう倭の松島=于山島だと思っていると言っただけであり、思っていたかどうかも確実ではありません。虚言癖があるのですから。
まして、その倭の松島がどこかと言う認識も怪しいです。

(3)両島は朝鮮の江原道に属する朝鮮領であることを隠岐国などへ訴えた。

これは、于山島だと思えばその通りですね。



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半月 安龍福が独島領有を確かなものに

外務省パンフレットへの批判5、(1) 2008/ 4/22 20:55 [ No.16488 / 16494 ]

投稿者 : ban_wol_seong


5.安龍福の渡日事件

  外務省のパンフレットは、韓国で英雄とされる安龍福の拉致事件(第1次渡日)について、こう記しました。
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  韓国側の文献によれば、安龍福は、来日した際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取ったと供述したとされています。
  しかし、日本側の文献によれば、安龍福が1693年と1696年に来日した等の記録はありますが、韓国側が主張するような書契を安龍福に与えたという記録はありません・・・
  その供述には、上記に限らず事実に見合わないものが数多く見られますが、それらが、韓国側により竹島の領有権の根拠の一つとして引用されてきています。
       --------------------

  ここでも外務省は「韓国側」という曖昧な用語を使用していますが、韓国政府の公式書簡に「安龍福は・・・竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得た」などとする主張は痕跡もありません(注1)。外務省は韓国政府の公式見解をまったく確認せず、またもや幻の主張に振りまわされているようです。
  韓国政府がそのような主張をしなかったのは当然です。安龍福と同時代の歴史を記した最も重要な官撰史書『粛宗実録』によれば、朝廷は安龍福がもらったという「書契」なるものを疑問視していたのでした。同書は、朝鮮側の「欝陵島争界」第二次交渉責任者である兪集一の見解をこう記しました。
       --------------------
  近年、臣が東莱にて使者を務めた時に安龍福を尋問したところ、言うには「伯耆州でもらった銀貨と文書を対馬島の人が奪った」としたが、今回、彼が伯耆州に呈文したことでは「対馬島の人が2千金で私を贖って本国へ送ると嘘をつき、その銀は本国で受けるとした」としたが、前後の話がとても食いちがっている。また対馬島の人は元々銀で贖うことがなく、壬戌約條も秘密なのに、安龍福がどうやって聞くことができるだろうか?
  また、倭人は皆 竹島が伯耆州の食邑としているのに、安龍福が一度話したからといって、朝鮮領とすぐには言わないだろうし、安龍福の呈文では欝陵島は本国の地であると何度も述べたが、倭人と問答した文書や安龍福を送るとした文書には一切ふれられていない。このような事情はとても疑わしいので、再び調査して実情がわかった後に罪を論じるのが適当である(粛宗22(1696)年10月23日条)。
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  この意見はもっともです。突然拉致された、外交使節でもない一漁夫が連行された先でいくら竹島(欝陵島)は朝鮮の領土だと主張したところで、まともに取りあってもらえないことは誰しも考えそうなことです。
  朝鮮で第1次交渉責任者であった洪重夏も安龍福の話をまったく信用しませんでした。さらに、当時の最高権力者である領府事の南九萬も同様であり、こう述べました。
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  安龍福が癸酉(1693)年に欝陵島へ行ったが、倭人に捕まり、伯耆州に入ったところ、本州で欝陵島は永久に朝鮮に属するとする公文を作ってやり、贈り物も多かったが、対馬島を経て来る途中で公文と贈り物をすべて対馬島の人に奪われたというが、その話を必ずしも信じられると感じはしなかった(粛宗22(1696)年10月13日条)。
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  このように少なくとも『粛宗実録』は安龍福の供述をそのまま載せても、それをそのまま真実と受けとめたのではなく、その真偽を見きわめた経過なども記したのでした。
  といっても、朝廷はかれの供述を完全に検証できるわけではありません。事件の舞台がほとんど日本だったので、検証には限界があります。真偽の見きわめが困難な供述に対して『粛宗実録』はコメントも加えずにそのまま載せました。そのような記事は単なる参考程度の意味しかありません。
  したがって、私人である安龍福個人がどのような発言をしようが、それ自体だけではあまり意味がありません。その発言が当時の社会や後世にどう影響したのかが重要です。

  そうした基本的なことを素通りして、外務省のパンフレットは、当時の朝廷から虚偽とされた安龍福の上記の供述を特筆大書しましたが本末転倒です。そもそも、外務省は『粛宗実録』をきちんと読んだのでしょうか? 素朴な疑問がわきます。
(つづく)


外務省パンフレットへの批判5、(2) 2008/ 4/22 20:56 [ No.16489 / 16494 ]

投稿者 : ban_wol_seong


  外務省のパンフレットは、安龍福が虚偽の供述をおこなったもう一つの例として、第二次渡日事件をこう記しました。
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  さらに、韓国側の文献によれば、安龍福は、1696年の来日の際に鬱陵島に多数の日本人がいた旨述べたとされています。しかし、この来日は、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後のことであり、当時、大谷・村川両家はいずれも同島に渡航していませんでした。
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  安龍福のこの供述に対し『粛宗実録』は何のコメントを加えずに記述したのですが、韓国政府はこれをほぼ事実と認める旨の書簡を日本へ送りました。日韓どちらの主張が正しいのか、ささいな史実の追求ですが、両国政府のメンツにかかわる問題だけに、それなりの検証を要します。

  日本政府の主張ですが、たしかに幕府が日本人の竹島(欝陵島)への渡航を禁じたのは、安龍福の渡日前である1月でした。また、鳥取藩が「竹島渡海免許」を返納したのは翌月でした。しかし、禁止されたといっても、その命令は大谷・村川家にすぐには伝えられませんでした。
  渡海禁止令の伝達は、鳥取藩主が「御帰国のうえでもって右の(禁止令の)ことを市兵衛、甚吉へ命じるようにとの(老中)大久保加賀守の御指図により、今日制禁の旨を命じられました」とされました(『御用人日記』1696.8.1)。
  すなわち、大谷・村川両家に渡海禁止令が伝えられたのは8月になってからでした。したがって、春の時点で両家は禁止令を知らず、例年どおり渡海した可能性があります。史料の上からは、外務省がいうように「当時、大谷・村川両家はいずれも同島に渡航していませんでした」とは決して断言できません。

  ただ、いろいろな状況から考えると 1696年の渡海はなかったものと思われるが、その前年の1695年なら、あるいは安龍福は竹島で日本人に出会った可能性があるとする研究もあります(注2)。
  その場合、安龍福の第2次渡日時における供述は大筋で認められることになります。第2次渡日事件に関して田保橋潔は、安龍福の供述を「徒(いたずら)に大言を弄するの嫌いはあるが、大体に於て事実と信ぜられる」と評価しました(注3)。

  いずれにせよ、安龍福の供述において注意すべきは、史実と、かれ独特の大言壮語とをよく見きわめることです。その際、些末なことにとらわれず、事件全体の本質を把握することが何よりも重要です。それを抜書きすると下記のとおりです。

(1)安龍福は 1696年に欝陵島から竹島=独島を経由して来日したことにより、竹島=独島の位置などを当時の水準でほぼ正しく認識していた。
(2)かれは、欝陵島は竹島であり、竹島=独島は子山島で日本で松島と呼ばれていると明確に認識していた。
(3)両島は朝鮮の江原道に属する朝鮮領であることを隠岐国などへ訴えた。

  これらの重要な史実は、2005年に発見された村上家古文書により確認されました。村上家古文書、正しくは『元禄九丙子年 朝鮮舟着岸一巻之覚書』ですが、これは幕府の代官手代により書かれた公文書なので、第一級の資料価値を有します。
  ところが、外務省のパンフレットはそれには一言半句もふれませんでした。ここの章でも、同省にとって都合の悪い資料や不利な資料は一切無視するという方針が徹底しているようです。
  その一方で同省は『粛宗実録』を拾い読みしてか、あるいは意図的にか、時には『粛宗実録』の意図を曲解してパンフレットを作成したようです。

(注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両政府の見解」『レファレンス』2002.6月号
(注2)朴炳渉『安龍福事件に対する検証』韓国海洋水産開発院
 (近刊予定、日本語および韓国語併記、販売は韓国の政府刊行物販売センター)
(注3)田保橋潔「鬱陵島その発見と領有」『青丘學叢』第3号、1931、P20

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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韓国の妄言教授を斬る  VIVA_VIVA_21

韓国の妄言教授を斬る① 2005/ 5/ 3 9:39 [ No.9252 ]

投稿者 :VIVA_VIVA_21


こんな恥ずかしいことがよく書けますね。
私が最近見た中でひどいと思ったのは以下の人物です。私は右翼ではないので中韓両国との友好関係を望む者ですが、このような愚かな意見が尊重されるようでは韓国側にその気があるのか疑問にすら思います。

http://japanese.joins.com/html/2005/0420/20050420210534400.html
そもそも北方領土を国際司法裁判所に訴えるにしてもサンフランシスコ講和条約に関係して原告になれるのかという疑問もあります。この点からもロシアの大使が本当にそんなことを言ったのか疑問が残ります。
というのも日本側は連合国側の提示する領土条件を呑むしかないわけですから、問題の根幹は連合国の中で領土決定の意思統一がされていないことです。つまり、日本がロシアを訴えるよりも米英がロシアを訴える性質とも言えます。
そもそもが北方領土に関しては連合国に参加した国々で解釈が分かれているわけで、日ロ両国だけの問題とも思えません。竹島については島そのものを米軍が管理していたので、日本への帰属を講和条約で決定しても異議が出ない部分ではありますが、北方領土については帰属先の決定についての意思表示が連合国で統一されていません。
韓国のこの妄言教授が何を言いたいのかわからない原因は、歴史の認識不足にあると思います。
日本はロシア(旧ソ連)と平和条約を結んでいません。まだ戦争状態の精算という最終目標を達していないのです。前述のとおり戦後の日本の領土は連合国によって決められる旨がポツダム宣言に定められており、日本はポツダム宣言を受け入れる義務を負います。具体的には第8条によって日本の領土は連合国が定めると明記されています。
ところが、サンフランシスコ講和条約の際には米国の代表ダレスがアメリカ合衆国の見解として歯舞諸島は千島列島に含まれないと公式に発言し、80年代後半のG7によるサミットで参加国首脳の全会一致の意見として日本の主張する北方4島がポツダム宣言により日本の主権が奪われる地域でないとの確認が行われました。
つまり連合国の中でもG7参加国は、北方4島の帰属を日本に認めたわけです。
特にポツダム宣言に初期参加していた米英両国が日本の主張を支持したために、この地域においてはポツダム宣言第8条の「「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」という部分の「吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」が機能していません。彼らが決定していないのですから。
つまり竹島については、サンフランシスコ講和条約締結国すべてが日本領であることを正式に認めているわけです。また、非調印国も竹島については何ら異議を唱えていないことからも日本への帰属が確認されたと見て差し支えありません。北方領土については連合国の中でも旧ソ連は日本領とは認めていない点が異なります。
また、中国は中華民国が米国の判断を支持すると言っていますが、現在の中華人民共和国が中華民国が国際的に締結した条約、宣言文書など踏襲すると言ってはいます。どういう態度を取るのか分かりません。(国際法的には、中華民国が米国に委任すると約束しているので、中華人民共和国もこれを尊重しなければなりません。)
つまり、国際法の観点から言えば旧ソ連も対日宣戦布告後、ポツダム宣言に参加したため、日本の領土決定に対しては連合国の意思形成に加わることができるのと同時に、他の連合国との意見集約をする義務を負うわけです。
この点からも問題は連合国側にあることが分かります。
講和条約の内容と異なる状態が国際的に生じる場合には締結国の同意が必要になります。例えば沖縄や小笠原諸島が日本に返還されたときは、締結国に連絡しましたが、どこの国も反対しませんでした。今、日本政府がとっている方法も同じで日ロ両国で領土問題の話し合いを行い、その結果を他の旧連合国が反対しなければ領土問題が解決することになります。
乱筆でしたが、北方領土問題が国際司法裁判所にすんなり付託できない点を述べてみました。
このような国際関係すら理解せずに妄言を吐く教授を語る愚か者がメディアを賑わすことを取っても韓国側メディアのレベルの低さを改めて実感しました。

返信


これは メッセージ 9237 henchin_pokoider01 にさん対する返信です




韓国の妄言教授を斬る② 2005/ 5/ 3 9:40 [ No.9253 ]

投稿者 :VIVA_VIVA_21


以下の妄言は世界の笑い者になっている韓国の実情を示しているようです。
「ところが、独島については日本はずっと国際司法裁判所を主張している。 これは自らの立場が弱いという反証だ。個人と個人の紛争でも、裁判所に行こうと最初に言うのは弱者の方だ。 日本がこの主張を始めたのは1950年代だが、当時提示した根拠は後続研究によって完全に崩れた。日本学者らも否定しているのだ。政府としては、日本政府に新たな根拠があるのなら提示してみろと要求するのが賢明な対応策だ」

裁判所に最初に行こうというのは弱者というのは驚きました。日本政府の主張が崩れているとは聞いたことがありません。ただし、妄言、妄想の類ではよく聞きますが。
逆に韓国側の主張はどうでしょうか?
歴史の歪曲で鬱稜島の側の小島が記載されているのを竹島と強弁したり、まともな地図もないどころか、竹島の存在自体を知らなかった可能性すらあります。また、竹島を領土と認識していない証拠は枚挙に暇がないほどです。(この辺は論客の方々により書き尽くされているので省きます。)

次に歴史歪曲の最たる例が載っていましたので指摘しましょう。
「日本政府が自ら何度か渡航禁止令を出し、領有権を否定したということだ。 1837年に会津屋八右衛門という人がこれを破り、鬱陵島まで行った後、処刑された記録もある。従って、いくら古文書があっても、それは潜商、いまの言葉では密貿易にすぎず、領有権とは関係のない記録ということだ」
渡航禁止令を出して領有権を否定したというのであれば韓国側は鬱稜島の領有も放棄したと言うことになりますね。何と言っても空島政策まで取ったわけですから。まあ、それはともかく、「渡航禁止令」が「領有権否定」に繋がるというのは明らかに間違いですね。渡航を禁止しても領有権を放棄するというのは別件です。それに竹島への渡航は禁止されていません。現在を見ても三宅島の火山災害では噴火に伴う有毒ガスのため、避難命令が出されましたが、これも一種の渡航禁止令に当たります。しかし、行くなとは言っても領有権を放棄したとは思えません。
最大の歪曲が、「会津屋八右衛門という人がこれを破り、鬱陵島まで行った後、処刑された記録もある」という部分です。会津屋八衛門がなぜ処刑されたかは、死罪を申し渡した大坂町奉行の口上を見れば明らかです。会津屋八衛門は船を出す口実として竹島へ渡航するという許可を得た上で船を出したのですが、実際には鬱稜島へ行ったために処刑されました。つまり鬱稜島への渡航禁止令を破ったから処刑されたのです。これは当時の幕府は鎖国政策を取っていたので渡航禁止先への渡航は死罪に値するほど厳しいものだったためです。なお、八衛門の取り調べにおいては「竹島(鬱稜島)への渡航は1回だけ」との記録が残っており、密貿易を行ったとはまったく書かれていません。まあ、密貿易をやったかどうかはともかく、この時点で鎖国政策があるにもかかわらず、鬱稜島へいったことから死罪は免れませんでした。
しかし、大坂の奉行が口上でも述べているように松島(竹島)への渡航許可は得ていたわけです。これは竹島への渡航が禁止されておらず、竹島の領有を放棄していない証拠です。
さらに領有権とは関係ないというのもこの妄言者の詭弁に過ぎません。というのも大坂の奉行は当時、政権を持っていた幕府直轄地の奉行であり、政権保有者の幕府が竹島の領有を認識していたという点は歴史的観点から竹島問題を見たときに領有権の正当性を確認する意味で大きいからです。
鳥取藩は竹島が自藩領地でないと申告したので、幕府直轄になり、大坂町奉行の所管になったものと思われます。幕藩体制下では神社の社領など特殊な例はありますが、土地は必ず幕府か藩に所属しなければならないので、領主のいない土地は幕府直轄になるわけです。竹島は岩なので米が取れないため、蔵入地にはなり得ず、また、人も住めないため代官もおけずに出雲藩が往来の事務を代行しています。まあ、要するに幕府は領土的価値はないが、鳥取藩も知らんぷりを決め込んでしまったので、大坂の奉行に引き取らせたのでしょう。




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独島は日本の「固有領土」か?  半月城

独島は日本の「固有領土」か?

 『民団新聞』 2006-05-10 

外務省ホームページに見る薄弱な根拠  独島問題 歴史的・根本的に考える


 正しく知らない実状

 昨年、島根県が「竹島の日」条例を制定したことに韓国が猛反発して一騒動あったが、今年は日本が独島(竹島)周辺の海域を測量しようとしたため韓日両国間で衝突寸前の悶着があった。これに関連して廬大統領は特別声明を出し「どんな費用と犠牲があっても、決してあきらめたり妥協したりできない問題」と決意を語るほどであった。

 これまでにも独島問題は韓日間でしばしば大騒ぎになるが、その割には日本で独島の歴史的背景が正しく知られていないのが実状である。

 そのいい例が外務省のホームページである。ホームページは「竹島は日本の固有領土」と書いているが、実はこの根拠がはなはだ薄弱なのである。その外務省の主張を多くの日本人はそのまま信じているが、そこにどのような問題点があるのか、この稿で明らかにしたい。

 1.江戸時代の「竹島拝領」という記録

 外務省のホームページ「竹島問題」は独島を「日本の固有領土」とする根拠の第1点目をこう記した。

 「江戸時代の初期(一六一八年)、伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも一六六一年には、両家は幕府から竹島を拝領していた」
 外務省は大谷家に伝わる私文書を引用したのか、同家などが欝陵島や独島を幕府から「拝領」したなどと記すが、これは我田引水といっていい。江戸時代、武士でない大谷、村川家のような町人が幕府から領土を拝領することはあり得なかったのである。
 もちろん「拝領」を裏づける公文書など存在しない。存在するのは、両家が竹島(欝陵島)へ渡海することを許可した老中連署の鳥取藩への書状のみである。大谷家はそれを誇大に「竹島拝領」と表現したのである。誇張表現は私文書では日常茶飯事なので、そのような私文書などを領有権の根拠とするのは妥当でない。
 独島の領有権論争においては、国家の領有意識がどうであったかが鍵になるので、それを示す公文書の存在がきわめて重要である。今から50年前の外務省もそう考えたのか、韓国政府との独島論争の書簡において、領有権の根拠として『隠州視聴合紀』(1667)を持ちだしたことがある。この書は隠州の郡代である斉藤豊仙により書かれた隠岐国の見聞録であるので公文書に準じるといってよい。

 斉藤は、同書のなかで日本の西北は「此州」すなわち「隠州」が限界であると記した。その際、斉藤は松島・竹島を隠州に含めなかったのである。ここにいう松島は今日の独島、竹島は欝陵島をさす。それにしたがい、この稿では江戸時代における両島の日本名を松島、竹島とする。

 松島・竹島をよく知る斉藤が、両島を日本の限界の外、すなわち領土外と考えていた事実は重要だ。その背景だが、斉藤は大谷・村川両家の竹島(欝陵島)への渡海船を異国へ渡る朱印船のように考え、村川船について「村川氏、官より朱印を賜り大舶を磯竹島に致す」と同書に記録している。磯竹島は竹島を指すが、斉藤は松島・竹島を日本の地でなく、異国と考えていたようである。

 日本政府はこの『隠州視聴合紀』を引用して松島・竹島を「日本の西北部の限界」だったと主張したのである。これは同書に書かれた「此州」を「この島」すなわち松島・竹島であると曲解したことによる。日本政府の解釈が無理であることは同書を底本にして増補した『隠岐国古記』の記述でも明らかだ。同書は「日本の乾地(いぬいち、西北の意味)此国を以て限りとする」と書き、「隠岐国」を日本の西北の限りとした。

 さらに、これに関する徹底的な論証が最近では名古屋大学の池内敏教授によりなされ、松島・竹島が当時は日本の領土外だったと結論づけられた。さらに、外務省があげた当時の代表的な地図である長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)においてすら、両島を日本領と見るのは困難である。同図で松島・竹島は朝鮮半島と同じく無色に彩色されたので、両島は異国と見るのがむしろ妥当である。

 2.松島(独島)の所属

 外務省のホームページは独島を日本の「固有領土」とする根拠の2点目をこう記した。「一六九六年、鬱陵島周辺の漁業を巡る韓日間の交渉の結果、幕府は鬱陵島への渡航を禁じたが(「竹島一件」)、竹島(独島)への渡航は禁じなかった」
 外務省は「竹島一件」を韓日間の漁業交渉としているが、実は、これは竹島(欝陵島)をめぐる朝鮮王朝と日本との領有権交渉であった。領有権論争に敗れた江戸幕府は、日本人の竹島への渡航を禁止したのである。その際、幕府はたしかに松島(独島)への渡航を禁じなかった。といっても、幕府は同島を日本領と考えていたわけではない。それどころか、当時、江戸幕府は松島の存在自体をほとんど知らなかったのである。

 実際「竹島一件」の時、幕府は実情把握のため鳥取藩に「竹島の他に両国へ付属する島はあるか」との質問書を出したほどであった。文中の両国とは鳥取藩が支配する因幡国・伯耆国を指す。幕府は異例の渡海申請があった竹島を知ってはいても、松島をほとんど知らなかったのである。

 それも無理のないことだ。幕府の地図に竹島や松島は記載されていなかったからである。当時の幕府の地図は各藩が作成した国絵図が中心だが、竹島に関係の深い鳥取藩自体、松島・竹島を自藩領でないと確信していたので、鳥取藩や幕府の地図に松島・竹島がないのは当然である。しかも松島は竹島とちがって渡海許可書などもないので、幕府が松島を知らなかったのも無理はない。

 竹島が鳥取藩に知られるようになったのは、1620年ごろだった。米子の回船問屋である大谷家の船が漂流中に竹島を偶然見つけた。その島は、朝鮮政府が倭冦対策のため空島政策をしいていたので無人島だった。しかも同島は自然資源が豊富な宝の島だった。そこで、大谷・村川両家は鳥取藩を通じて幕府から渡海許可を得て、竹島で数十年間にわたり漁労などを行った。その際、両家は幕府老中の内諾を得て松島で多少の漁労を行った。しかしながら、幕府内ではそうした事情が伝承されなかったのか「竹島一件」当時、幕府は松島をほとんど知らなかったのである。

 一方、松島・竹島をよく知る鳥取藩であるが、竹島(鬱陵島)渡海許可が幕府から出されたことから、両島は幕府所管であり、自藩領ではないと同藩は考えていたようである。したがって、鳥取藩が幕府の質問書に対して「松島・竹島その他、両国へ附属する島はない」と回答したのも自然な成りゆきであった。

 結局、鳥取藩からの回答で「竹島は因幡・伯耆の付属ではない」「松島・竹島その他、両国へ付属する島はない」とされたことが決め手になり、幕府はついに竹島の放棄を決定し、それを朝鮮国へ伝えて「竹島一件」は落着した。朝鮮への書簡では松島(独島)にふれなかったが、幕府は領主のいない松島も日本領でないと判断したことは明らかである。江戸時代、領主のいない日本の領土はあり得なかった。
 外務省はホームページで独島を「固有領土」とする理由に上記の2点のみをあげたが、それらは上に論証したように、いずれも根拠が薄弱である。さらに特筆すべきは、日本には独島を日本領とする江戸時代の公文書や官撰地図は存在しないのである。

 3.明治政府は独島を日本の領土外と宣言

 日本では専門家以外ほとんど知られていないが、明治新政府は朝鮮を内探するため、1869年に外務省高官を朝鮮へ派遣した。翌年、高官は報告書「朝鮮国交際始末内探書」を提出し、そのなかで「竹島松島朝鮮付属に相成候始末」という一項をもうけて、松島・竹島が朝鮮領であることを明確にした。これは単なる報告書にすぎないが、その内容から明らかなように、外務省が江戸幕府の「竹島一件」のてん末を継承し、独島を朝鮮領と認識したことを示した点で重要である。太政官指令書の存在

 それよりも重要なのは、松島・竹島を版図外とした太政官指令である。指令のきっかけは新政府の地籍編纂事業だった。新政府は日本各地の地籍を編纂するにあたり、松島・竹島が日本領かどうかの検討を行った。その際「版図の取捨は国家の重大事」との考えから慎重に江戸時代の「竹島一件」などを吟味した。

 その結果、やはり松島・竹島は日本領でないとの結論をくだし、1877(明治10)年、明治政府の最高機関である太政官は「日本海内竹島外一島を版図外とする」との指令をだした。この画期的な太政官指令書を今の外務省は決して明らかにしようとしないが、その姿勢は情報隠しに等しいといえよう。太政官指令書には付属文書「島根県伺」があるが、そこにおいて独島は「外一島」として、こう記述された。

<太政類典 第二編 第九十六巻>
 「次に一島あり。松島と呼ぶ。周回三町。竹島と同一の船路にある。隠岐をへだてる八十里。竹木は希で、魚獣を産する」

 この文書にて松島は竹島の付属島のように書かれたが、このように両島は一対という意識が日本では強かったので、明治政府は竹島とともに松島も版図外としたのである。元来、松島には松の木どころか樹木が1本もないにもかかわらず松島と呼ばれたのも竹島と一対という認識のためである。日露戦争中強引に編入

 さて、「島根県伺」における松島の位置は、隠岐から八十里、竹島から四十里とされた。距離は実際より遠めだが、この距離の記述をはじめ付属文書の内容は、実際に渡海事業をおこなった大谷家などの文書や地図が元になっているだけに、松島が今日の独島をさすことは間違いない。

 明治政府はそれらの史料や、朝鮮との書簡などを精査して、竹島および外一島、すなわち松島・竹島を一対にして朝鮮領と判断し、日本の領土外とする指令を布告したのだった。この重要な太政官指令について外務省はホームページをはじめ全ての文書で沈黙を守っている。

 さらに重要な史実がある。明治政府は、水路部が日本や隣国の沿岸を測量し、近代国家として日本の領域を画定して水路誌を発刊したが、その際に独島を「リアンコールト列岩」の名で『日本水路誌』でなく『朝鮮水路誌』(1894)に含めたのである。

 この事実から国境画定機関である水路部は日露戦争以前に独島を朝鮮領と認識していたのは明らかである。これについても外務省のホームページは一切沈黙している。外務省はこうした数々のアキレス腱をかかえたまま「竹島は日本の固有領土」との主張をくり返しているが、これは重大な情報操作である。

 4.帝国主義的な独島奪取

 以上のように、明治政府は独島を韓国領と判断しておきながら、1905年、突如として独島を日本領へ編入することを閣議決定した。その背景には、日露戦争という「時局なればこそ、その領土編入を急要とするなり。望楼を建築し、無線もしくは海底電信を設置せば敵艦監視上きわめて届竟ならずや」とする外務省政務局長・山座円次郎の判断などが推進力になったのである。

 実際、同島周辺は軍事的に重要な海域であった。日本が独島を編入したわずか3か月後、ロシアとの間で歴史的な「日本海海戦」が沖ノ島の沖合から同島近海で戦われ、日本は圧勝する。この海戦は独島の戦略的重要性をはからずも証明したが、それほど重要な独島を、日本はノドから手が出るほど欲しかったのである。

 そのため、日本政府は日露戦争の最中である1905年2月、隠岐の商人である中井養三郎から内務・外務・農務の三省に提出された「リャンコ島領土編入並に貸下願」を認める形でリャンコ島(独島)の奪取を閣議決定した。その際、「版図の取捨は国家の重大事」という内務省の見解にもかかわらず、その決定を官報に公示しなかった。

 わずかに島根県が独島を新発見地であるかのように装って、島根県告示第四十号で島の位置のみを明示し「竹島と称し、自今本県所属隠岐島司の所管と定めらる」と布告した。これは地方新聞に報じられたが、そこでも旧島名の記述もなければ、領土編入という言葉すらなかった。

 領土編入が太政官指令に反するのみならず、他国の領土を自国へ編入するのは明らかに国際法に反するだけに、内密裡に処理されたようである。秘密処理の結果、日本海海戦の勝利を伝える新聞や、はなはだしくは政府の官報すら新名称である「竹島」の名を使用せずに「リアンコルド岩」という外国名を用いたほどである。

 一方、閣議で領土編入の提案部署であった内務省が、かつて独島を「韓国領地の疑いある」と判断していたにもかかわらず、明治政府は小笠原諸島編入の場合に行ったような関係国との協議を行わなかった。同島の場合、日本政府は関係国の米・英両国と何度も協議し、両国の了解を得て同島を統治することを欧米12 か国に通告したのであった。これは欧米列強や国際法を重視した措置であった。国際法に対する取り組みは独島の場合と大違いであった。

 両者の違いは当時の国際法の性格にある。現在と違ってその当時の国際法は基本的に欧米列強間における利害調整のための道具であった。そのため、侵略戦争すら合法であった。そうした弱肉強食の時代にあって、列強国は相手が弱小国とみるや、国際法など無視してかかるのが常であった。 たとえば1905年8月の第2次日英同盟などがそのいい例である。この条約は、前年の日韓議定書に明らかに反して結ばれたが、韓国の抗議に対し日英両国はなんらの措置をとらず「イグノヲア」、つまり無視を決めこんだのである。当時は欧米列強のそのような帝国主義的手法が公然とまかりとおったのである。

 日本は、そのような手法の延長で韓国を保護国とする乙巳条約(1905)を強要し、やがては韓国全体を併合したのであった。これが韓国に対し、甚大な被害と苦難をもたらしたことはいうまでもない。先日、大統領は特別談話で「独島は日本の韓半島奪取の過程で最初に併呑された歴史の地」と語ったが、今や、独島は日本による過去の侵略の象徴的存在となった感がある。

 以上のように、独島はもともと日本の固有領土ではなかったし、明治政府は韓国領と判断し、日本の領土外と宣言した島であった。それを日露戦争という「時局なればこそ」戦略的に重要な島であると判断し、こっそり日本領へ編入したのであった。日本はそうした経緯を重く受けとめ、独島をふたたび領土外であると宣言するのが妥当である。

 おことわりであるが、本稿では紙面の制約から資料の紹介などは割愛した。また論証が必ずしも十分でない部分は筆者のホームページ、下記「半月城通信」を参照されたい。

(半月城通信) http://www.han.org/a/half-moon/
          http://www.han.org/a/half-moon/hm120.html



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郷土の英雄 会津屋八右衛門

re4)会津屋八右衛門 2008/ 4/25 9:07 [ No.16499 / 16501 ]

投稿者 : take_8591


  八右衛門は郷土の英雄の様です。*1)

  八右衛門は、窮迫した浜田藩の財政に寄与するため、浜田藩幹部と密議し「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り(大坂町奉行判決)」、朝鮮・中国・台湾・安南・ルソン等から、珍しい品々を浜田に荷場げしました。これにより浜田藩財政の確立に大いに役立ちました。

  幕府(大阪町奉行所)が、「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り」と認めているのですから、竹島一件後もリャンコ島への渡海は禁止されていなかったことが明らかです。


  この事件を、崔書勉氏は次のように解説しています。*2)
   ------------------------
--日本が独島を固有の領土と主張する根拠が、でたらめということか。
  「日本政府の固有領土論のバイブルに該当する本は、1966年に川上健三氏が編纂した『竹島の歴史地理学的研究』だ。 外務省の協調を得て、ぼう大な文献を調べて集大成した本だ。 そこには、朝鮮時代の空島政策で人がいなくなった鬱陵島(ウルルンド)と無人島の独島に、日本人が行き来しながら漁業をしたという古文献記録がたくさん提示されている。 それは事実だ。 しかしもっと重要なのは、日本政府が自ら何度か渡航禁止令を出し、領有権を否定したということだ。 1837年に会津屋八右衛門という人がこれを破り、鬱陵島まで行った後、処刑された記録もある。従って、いくら古文書があっても、それは潜商、いまの言葉では密貿易にすぎず、領有権とは関係のない記録ということだ」
   ------------------------

  「鬱陵島まで行った後処刑された記録」→「鬱陵島渡海は禁止されていた」→「だから独島は日本領ではない」・・・おかしいですね。
  韓国人の主張はいつもこの様です。鬱陵島の話をしていて突然結論に至り、そこでは始から独島の話をしていたように装い、「独島は韓国領!」となってしまうのです。


*1) http://www8.ocn.ne.jp/~hamadajc/paeg/haci-02.html
*2) http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=62750&servcode=200§code=200



re4)天保の渡海禁止令 2008/ 5/ 1 7:01 [ No.16518 / 16520 ]

投稿者 : take_8591


  1812年、「松竹二島ノ間ニ出デ*1)」北海道に行き、択捉島の漁場視察のため国後島近海に居た高田屋嘉兵衛の商船がロシア船に拉致されました。
  1836年に会津屋八右衛門事件が起こり、「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り」と松島渡海が禁止されていないことが確認されます。1837年に、竹島渡海禁止令が再布告されます。

  -----半月城さん-----[ No.15609 ]-----------------------
 1.今般、松平周防守の元の領地である石州の浜田松原浦にいた住所不定の八右衛門が竹島(欝陵島)へ渡海した一件、吟味のうえ、右の八右衛門その他はそれぞれ厳罰に処された。
   右の島は、昔は伯耆・米子の者たちが渡海して漁労などをしたが、元禄期に朝鮮の国へお渡しになった時から渡海停止が仰せつけられた場所である。すべて異国へ渡海することは重いご禁制である。今後、右の島のことも同様に心得て渡海してはならない。
   もちろん、国々の廻船などは海上で異国船に出合わないように乗り筋などを心がける旨を先年も触れたとおりであるが、いよいよ守り、以後はなるべく遠い沖へ出ないように乗り回すことを申しつける。
    ・・・・・     (天保8年)2月
  ------------------------------------------------------

  この触書は次の2点を告知しています。
  1 竹島は朝鮮領であるから、今後は竹島渡海に鎖国令の適用がある。
  2 先年の触書を、いよいよ守るべきこと。

  この2項の「先年の触書」ですが、高田屋嘉兵衛拉致事件の頃でしょうか、それとも、1825年の異国船打払令の頃に出されたのでしょうか。何れにせよ、竹島領有権問題とは関係なく出された触書の再確認の意味を持ちます。
  ところが、内藤正中氏は、「竹島渡海はもちろん、『遠い沖合い至らざる様』と遠い沖合いでの航海についても注意を喚起して、浦方村町ともに漏れなく周知徹底を図るように厳命したのである。元禄期につづく2回目の竹島渡海禁止令であった。竹島はいけないが松島は許されると解釈できるようなものではなかったはずである。*2)」と述べます。
  この様に書くと、元禄期に竹島を朝鮮に渡し、天保期に松島を朝鮮に渡したと言うことになります。事実、内藤氏はこの認識で論を展開しています。
  しかし、上記触書をどの様に読んでも、2項が領土問題を告知しているとは読めません。


 (*1) 1827(文政10)年、中川顕允『石見外記』 高田屋嘉兵衛の商船が「松竹二島ノ間ニ出デ」と記述
 (*2) 史的検証竹島 2007-04-26 岩波書店発行



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竹島一件の決着   take_8591

re4)竹島一件の決着 2008/ 4/25 8:04 [ No.16497 / 16501 ]

投稿者 : take_8591


 独島に対する日本の領有権主張が誤りである理由(独島学会編)
  http://toron.chu.jp/take/krobject/dokdoob.html
 4、1696年1月に日本は鬱陵島と独島を朝鮮の領土であるとあらためて確認しこれを決定した。この事実は外交文書化され、朝鮮と交換された。
  江戸幕府は1696年1月28日、鬱陵島・独島を朝鮮領であることをあらためて確認し、日本の漁夫による鬱陵島・独島への出漁を禁止することを決定した。同時に対馬藩主に、刑部大輔を朝鮮に派遣しこの再確認と決定を朝鮮に知らせ、またその外交交渉結果を幕府に報告するよう命じた。
  対馬藩主は江戸から国へ戻り、この外交手続を開始した。
  朝鮮の礼曹参議・李善溥(イ・ソンブ)と対馬の刑部大輔・平善真の間で外交文書のやりとりが2度行われた後の1699年1月、日本から朝鮮に、朝鮮からの返書を幕府将軍に確かに届けたという最終確認の公式書簡が送られ、外交手続は全て終結した。
  こうして対馬藩主が長崎奉行と結託して朝鮮の鬱陵島・于山島を奪おうとして始まった鬱陵島・独島をめぐる争いは、1696年(粛宗22年)1月に終結した。
  鬱陵島・独島が朝鮮の領土であり、日本の漁夫らの越境・漁業を禁止することを幕府将軍があらためて確認・決定しており、これに関する外交文書のやりとりも1699年1月に最終的にすべて終了している。
  ------------------------------

  上記の「江戸幕府は1696年1月28日、鬱陵島・独島を朝鮮領であることをあらためて確認し、日本の漁夫による鬱陵島・独島への出漁を禁止することを決定した。」とする文書は、
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/011.jpg
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/012.jpg
にあります。たぶん、次の様な内容が書かれています。(*1)

  先の太守が、竹島の事で、貴国に両度使者を遣わした。
  しかし、その仕事が未了の内に不幸にして早世したので、使者を召還した。
  不日に上京し(将軍の)謁を得た。この時、竹島の地状と方向を問われた。
  具体的事実に依拠して答えた。
  本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
  恐らくは、両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
  即座に令を下し、永久に入住・漁採を許さない様にした。
  それ隙は細美において生ずる。禍患は下賎において興る。これが古今の通病である。
  預かじめ定めておくが安らかと考える。之を以って100年の友好とする。
  偏った欲を篤くして、小さな島に拘らないことが、両国にとって美事である。
  ------------------------------

  これは、「訳官へ達書」とされる文書です。この内容は、1696年10月16日、対馬島で朝鮮官僚に、口頭又は文書で通達されました。朝鮮官僚がソウルに帰還したのは翌年1月10日です。

  当時の徳川幕府は、竹島=鬱陵島と松島=リャンコ島を、別個の島として完全に認識していました。その上で、本決定が「竹島=鬱陵島」に関わることであると明瞭にしています。
  幕府は、(竹島には)「永久に入住・漁採を許さない様にした」のです。当然、松島=リャンコ島には、入住・漁採を継続する意思が込められています。

  1695年、対馬藩は4箇条を列挙して竹島の領有を主張しました。この様な合理的な理由を排除して非合理な決定をした理由として、上記は3点を掲げています。
  1 本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
  2 両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
  3 偏った欲を篤くして、小さな島に拘らない。

  結局、徳川幕府が選択したのは、道理ではなく、朝鮮との友好関係でした。


(*1) 先太守 因竹島事遣使 於貴国者 両度使事
   未了 不幸早世 由是召還使人
   不日上船入 覲之時 問及 竹島地状方向
   拠実具対 因以
   其去 本邦太遠 而去 貴国却近
   恐両地人 ●雑 必有 潜通私市等弊
   隨即下令 永不許入往漁採
   夫隙生於細徴 禍患興於下賎 古今通病 
   慮寧勿預 是以百年之好
   偏欲彌篤 而一島之微拠付不較 豈非 両邦之美事乎



re4)決着への道程 2008/ 5/ 1 6:35 [ No.16517 / 16520 ]

投稿者 : take_8591


  先の太守が、竹島の事で、貴国に両度使者を遣わした。
  しかし、その仕事が未了の内に不幸にして早世したので、使者を召還した。
  不日に上京し(将軍の)謁を得た。この時、竹島の地状と方向を問われた。
  具体的事実に依拠して答えた。
  本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
  恐らくは、両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
  即座に令を下し、永久に入住・漁採を許さない様にした。
  それ隙は細美において生ずる。禍患は下賎において興る。これが古今の通病である。
  預かじめ定めておくが安らかと考える。之を以って100年の友好とする。
  偏った欲を篤くして、小さな島に拘らないことが、両国にとって美事である
  ------------------------------------------

  この文意解釈を、竹島記事に拠ると次の様になります。

●不日に上京し(将軍の)謁を得た。
  この「不日」とは、1695年10月6日と思われます。
  この時、対馬藩主は江戸入りしましたが、日本領有派を同行せず、朝鮮領有派のみを同行させました。これが対馬藩主の最終決定であり、竹島一件を決定させたと言えます。

●本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
  対馬藩朝鮮領有派の主張は、「鬱陵島は輿地勝覧に載っているという朝鮮の主張を無視するやり方は、不義とまでは言えないとしても、とても忠功とは言えない」というものでした。これは、観念論に過ぎませんが、綱吉の好みそうな言葉であり、次の論理と表裏一体を為します。

●恐らくは、両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
  老中阿部は、「多田の4ヶ条に理があるから、領有問題を曖昧にしたままで、日本の渡海はこれまでどおりとしてはどうか。」という折衷案を出しました。しかし、対馬藩は、「そんなことをしたら、密輸事件が起こり、私市が立ち、大変なことになります。」と返答しました。朝鮮から「鬱陵島に渡海させない」との言質が取れない限り、鎖国令の国是が守れなくなるので、折衷案は存在しないというものです。

●偏った欲を篤くして、小さな島に拘らないことが、両国にとって美事である。
  史料は何もありませんが、これは上記議論を重ねた上での老中阿部の発言ではないかと推理します。


http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_00/index.data/siryo2.pdf

  老中阿部は、竹島渡海禁止を決定し、その為の事務手続きに入りました。
  それは、改めて、竹島が鳥取藩の領地であるか否かを問うものでした(1695-12-24)。対して、鳥取藩は自藩領ではないと答えました(1695-12-25)。この回答で、幕閣はフリーハンドを確認して、竹島渡海禁止を決定します(1696-01-28)。

  仮に、老中阿部が竹島を鳥取藩の領地と考えていたのであれば、訴えから2年半経過した時に、この様なピント外れな質問を発することはあり得ません。鳥取藩が紛争当事者であれば、その意思を仔細に聴取しなければ幕藩体制が成り立たないのは、鎌倉時代からの原則です。即ち、老中阿部が竹島を天領と考えていた事、紛争当事者は徳川家と考えていた事に間違いありません。
  竹島の書付は、幕府決定の要素ではなく、幕府決定後の実行手続きの一つに過ぎないものです。





竹島記事
http://take8591.web.fc2.com/kiji/kiji030/9000.htm



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多田与左衛門の4ヶ条   take_8591

re4)多田与左衛門の4ヶ条 2008/ 4/25 7:43 [ No.16496 / 16501 ]

投稿者 : take_8591


 http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/ikken.html
 の要約は次のとおりです。

  1695年6月10日、対馬藩士多田与左衛門は4箇条を列挙して朝鮮政府への不信を詰問しました。

  第一条、朝鮮側は鬱陵島には定期的に官吏を派遣していると言うが、鳥取や出雲の漁民達は、ここ81年来、貴国の官吏と遭遇した事はないが、何故か?
  朝鮮回答:輿地勝覧によれば1472年頃までは官吏を派遣していた。近頃は、風濤危険なので往来しなかっただけだ。

  第二条、これまで我が国の漁民が鬱陵島に出漁し、三度漂到した。それにも拘わらず、「犯越侵渉」として抗議しなかったのは何故か?
  朝鮮回答:漂流した難民をお互いに還し合うのは、優先すべき正義である。その時に「犯越侵渉」を問わなかったからといって、その意が無かったとは言えない。

  第三条、当初は「貴国の竹島、弊境の鬱陵島」としていたのに、今回は「鬱陵島と竹島を一島二名」としたのは何故か?
  朝鮮回答:当初の回答は錯誤によるものである。これを変更して貴国の信を問うものだ。

  第四条、1614年、東莱府からの書状には「本島即我国所謂鬱陵島」「他人の冒占を容れず」とあった。だが1618年*1)、鬱陵島に出漁した日本の漁民が貴国に到達した際には、領海侵犯として抗議を受けていない。両時の文意が合致していないのは何故か?
  朝鮮回答:両時における朝廷の意は変わらない。ただ、詰問しなかっただけだ。
  ----------------------------------

  輿地勝覧によれば1472年頃までは、鬱陵島が朝鮮領であったことが確認できます。しかしその後、1694年迄の200年間、朝鮮は官吏を鬱陵島に派遣することはありませんでした。この間、朝鮮にとって鬱陵島は忘れられた島だったのです。
  この200年間、1614年に一度だけ、対馬藩から鬱陵島が日本領であることの確認を受けた光海君は「本島即我国所謂鬱陵島」「他人の冒占を容れず」と叫びましたが、この実態の無い観念的領有権の主張によって、日朝交渉は頓挫しました。
  その後、日朝が鬱陵島の領有権を主張する中で、事件は次々と起こります。先ず、1618年に美保関の漁民が朝鮮に漂着しましたが、これを送還するに際し、朝鮮は領海侵犯として抗議をしませんでした。1637年と1666年に「竹島渡海免許」を所持した村川船と大谷船が朝鮮に漂着しましたが、朝鮮はこの時に「犯越侵渉」を問わなかった事を認めました。更に、1694年に「貴国の竹島」を認めました。
  こうした状況下ですから、「実際に日本で日本の領土と考え、日本の領土として扱」った竹島に、「他国がそれを争わな」いまま、81年間渡海事業を継続したのですから「それで領有するには充分であった」といえます。
  そして、朝鮮は光海君の叫び声は日本に聞こえていた筈だから、日本は鬱陵島を朝鮮領と考えなければならないと言いますが、同じことが日本側にも言えます。日本は竹島を支配しそのことを朝鮮に伝えており、朝鮮は日本の支配を知りうる機会を得ながら抗議をしていないので、朝鮮は竹島を日本領と考えなければならないのです。

  この様に、多田与左衛門の交渉は成功していたのです。


(*1)原文は「78年前」とあります。これは美保関の馬多三伊等7人が朝鮮に漂着した事件を指すと思われます。韓国の李薫氏はその論文で送還されたのは1618(元和4)年としています。



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半月 元禄期に竹島渡航を禁止していない

外務省パンフレットへの批判4、(1) 2008/ 4/19 15:50 [ No.16464 / 16480 ]
投稿者 : ban_wol_seong



4.幕府の渡海禁止令

  1693(元禄6)年、大谷家の渡海船が竹島(欝陵島)で安龍福と朴於屯のふたりを拉致したことをきっかけに、日本と朝鮮の間で同島をめぐる領有権交渉「竹島一件」が始まりました。この交渉について外務省のパンフレットはこう記しました。
       --------------------
  状況を承知した幕府の命を受けた対馬藩(江戸時代、対朝鮮外交・貿易の窓口であった。)は、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡航禁制を要求する交渉を開始しました。しかし、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得るに至りませんでした。
       --------------------

  意見の対立は当然でした。そもそも幕府の命令は当初から無理なものでした。その命令に対し、対馬藩ではすぐに疑問の声があがったくらいでした。前藩主である天龍院(宗義真)は幕府の真意をいぶかって、次のような疑義を提起しました。
       --------------------
  竹島の儀は磯竹島ともいう。先年、大献大君(徳川家光)の時代、その島へ磯竹弥左衛門、仁左衛門(ママ)と申す者が居住していたのを召し捕えて差し出されるようにと(公儀から)光雲院公(宗義成)へ仰せつけられ、すなわち此方より召し捕られて差し出したことがあった。
  しからば、竹島の儀は日本の伯耆にある島と公儀でお考えならば、伯耆藩主のほうで弥左衛門・仁左衛門を召し捕えて差し出されるようにと仰せつけられるはずであるのに、当国へ仰せつけられたのは、朝鮮の竹島とお考えであると見られる。
  この次第を一応、公儀へ伺うことを考慮するよう留意して、朝鮮へ申し入れるべきである(『竹島紀事』9月4日)。
       --------------------

  天龍院の疑問はもっともなことでした。かれは、朝鮮とのいきさつから竹島(欝陵島)が朝鮮領であることを熟知していたので、幕府が潜商事件の弥左衛門親子を捕える仕事を鳥取藩でなく対馬藩へ命じたのは、幕府も同島を朝鮮領と考えているからではないかと疑っていたのでした。
  しかし、この時の藩論は、幕府の公命には背けないので、幕府へ事情を正すようなまねはできないという結論でした。その結果、対馬藩は幕府の真意がわからないまま、朝鮮領である竹島(欝陵島)へ朝鮮人が来ないように要求するという無理難題を朝鮮へふっかけることになりました。

  一方、幕府内では潜商事件が忘れ去られていたのか、あるいは組織の問題で受け継がれなかったのか、幕府は竹島(欝陵島)について改めて調査を始めました。1693年5月21日、勘定奉行の松平美濃守は江戸の鳥取藩邸へ竹島渡海に関する質問をおこないました。
  これに対して鳥取藩は、竹島は鳥取藩の支配地でないと明言し、「竹島は離れ島にて人の居住はありません。もっとも、伯耆守が支配する所でもありません」と回答しました(注1) 。
  この回答書により、幕府は竹島(欝陵島)が鳥取藩領でない、ひいては日本領でないことを悟ったのですが、そうかといって、対馬藩へ出した命令を取り下げたりはしませんでした。察するに、朝令暮改で幕府の威信に傷がつくことを懸念したのでしょうか。

  他方、対馬藩の要求を突きつけられた朝鮮政府は、欝陵島が官撰書『東国輿地勝覧』などに記載されていることから、同島の領有を確信していました。しかし、日本との摩擦を避けるため、一時的に宥和政策をとって交渉に臨みました。
  朝鮮政府は、欝陵島が日本でいう竹島であることを知りながら、欝陵島と竹島をあたかも別の島であるかのように扱い、形式上で朝鮮人の竹島への渡航禁止という日本の要求を受けいれました。その一方で「弊境の欝陵島」という原則的な立場は堅持し続けて対馬藩へ書簡をしたためました。
(つづく)



外務省パンフレットへの批判4、(2) 2008/ 4/19 15:51 [ No.16465 / 16480 ]
投稿者 : ban_wol_seong


  対馬藩はその書簡に満足せず、あくまで竹島(欝陵島)の完全領有を狙い、朝鮮の書簡から「弊境の欝陵島」を削除するよう強く求めました。
  無理難題を突きつけられた朝鮮政府は、あらためて安龍福を取調べ、その供述から対馬藩の計略を感じとり、一転して強硬姿勢に転じました。結局、竹島と欝陵島は同一の島で朝鮮領であるとする強硬な書簡を対馬藩へ渡し、同藩の要求をつっぱねました。当然のごとく、対馬藩との交渉は暗礁に乗りあげました。

  外務省のパンフレットは、日本の要求が途方もない無理難題であったことを伏せ、日本は「友好関係を尊重」したので朝鮮に全面譲歩したかのように装い、こう記しました。
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  対馬藩より交渉決裂の報告を受けた幕府は、1696年1月、朝鮮との友好関係を尊重して、日本人の鬱陵島への渡航を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されています。
       --------------------

  外務省は、幕府が渡航を禁止した真の理由を無視しているようです。実は、幕府は竹島(欝陵島)の調査をおこなった結果、日本の要求が無理であったことを悟ったので日本人の竹島渡海禁止を決定したのでした。その概略はこうでした。
  1696年1月(元禄8年12月!)、老中・阿部豊後守は、竹島に関する調査のために、鳥取藩へ7か条の質問をおこないました。この時に3年前の勘定奉行による調査を知らなかったのか、似たような質問をしました。
  その第1条を口語訳にすると「因州、伯州に付属する竹島はいつのころから両国の付属か?・・・」となります。老中は、竹島が因幡・伯耆の両国を支配する鳥取藩の所属と思いこんでいたようです。

  しかるに、鳥取藩の回答は「竹島は因幡、伯耆の付属ではありません」として自藩領ではないことを明言しました。そもそも、竹島への渡海許可は鳥取藩主によるものではなく、幕府の老中4人が連署した奉書によってなされたので、鳥取藩の回答は当然でした。
  幕府は、他に竹島の大きさや渡海の実情などを尋ねましたが、注目されるのは第7条の「竹島の他に両国へ付属する島はあるか?」との質問です。これに対する鳥取藩の回答は「竹島や松島、その他、両国に付属する島はありません」として、松島(竹島=独島)も鳥取藩の付属でないことを明言しました。

  この時、幕府は実は松島の存在を知らなかったのでした。幕府は回答書に松島の名が新たに登場したことに関心を示し、追加質問をおこなったくらいでした。その質問書は発見されていませんが、その質問に対する鳥取藩の回答書が『竹嶋之書付』に残されました。
  それによれば、鳥取藩は「松島はいずれの国へ付属する島ではないと承知しています」「竹島へ渡海の節、通り道なので立ち寄って猟をおこないました」などと回答しました。
  このように、幕府は松島(竹島=独島)の存在を知らなかったので、同島に対する領有意識がなかったことはいうまでもありません。しかるに、外務省のパンフレットはこう記しました。
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  その一方で、竹島への渡航は禁止されませんでした。このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかです。
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  日本が竹島=独島を「自国の領土」と考えていなかったのは『竹嶋之書付』から明白なのに、その史実を無視した外務省のパンフレットは白々しさを通り越しているようです。
  また、竹島がいずれの国にも属さないので渡海が禁止されたのであるから、同じくいずれの国に属さない松島も暗黙裏に渡海が禁止されたと解釈すべきです。この点、外務省のパンフレットは我田引水が過ぎるようです。
(つづく)


外務省パンフレットへの批判4、(3) 2008/ 4/19 16:12 [ No.16466 / 16480 ]
投稿者 : ban_wol_seong


  以下は余談です。
 『竹嶋之書付』などの鳥取藩関係資料は、日韓で竹島=独島論争が盛んだった 1954年ころは鳥取県立中央図書館に「秘蔵」されていました。それを当時、島根県広報文書課の田村清三郎が特別に借用したり、外務省条約局第1課の川上健三や東洋文庫の田川孝三らが特別に閲覧したので、かれら三人はその内容を十分に把握していました。
  その三人は日韓竹島=独島論争で大いに活躍した「竹島三羽ガラス」ですが、かれらは日本に不利と思われる史料の内容は決して公表しようとしませんでした。特に田村や川上は、公務員の悲しいサガとでも言うのでしょうか、目先の「利益」にとらわれ、真実を国民の前に明らかにしようという姿勢は皆無だったようでした。

  その後、島根県や鳥取県はそうした情報を公開しましたが、外務省は未だに情報隠しの伝統を大事にしているようです。それを今回のパンフレットにありありと見ることができます。
  外務省は限定的に公開した情報から「竹島は日本の固有領土」というキャッチフレーズを作りだしましたが、因果応報なことに、今ではそれが自縄自縛になり、竹島=独島を版図外とした太政官指令のような重要事件に関してまったく見解を示せないという苦境に陥っているようです。
  かつての外務省は情報隠しにより、韓国政府とのディベートで一時的に優位に立ちましたが、歳月を経るうちに研究も進み、昔のキャッチフレーズが今や外務省のアキレス腱になってしまったようです。

  ちなみに、竹島三羽ガラスの主な役割分担は次のようなものでした。
田村清三郎: 鳥取藩の古文書や、竹島=独島渡海関係など島根県関係資料調査
川上健三:  江戸幕府や明治政府関係などの資料調査、大谷家古文書の調査
田川孝三:  朝鮮史書を始めとした文献調査

  田村や川上は公務員なので近視眼的な資料隠しは予想できるのですが、学者肌の田川までもが田川や田村と同様の資料隠しをおこなったようです。その一端はすでに書いたように、彼の于山島認識に見ることができます(注2)。
  現在、彼の著書『李朝貢納制の研究』は古本屋で3万円以上の値がついていますが、そのような業績も、なまじっか日韓両政府の竹島=独島論争に首を突っこんだばっかりにかすんで見えます。

  竹島三羽ガラスにより秘蔵されてきた情報は、80年代になって徐々に明るみに出されました。1985年、国会図書館の塚本孝氏により『竹嶋之書付』が翻刻されたのに続いて(注3)、1987年には京都大学の堀和生教授により太政官の版図外指令などの重要史料が発掘され、竹島=独島問題に画期をもたらしました(注4)。
  その後、鳥取藩や島根県の郷土史料が島根大学の内藤正中教授により全般的に解読されたのに続き(注5)、対馬藩の『竹島紀事』は2004年になって名古屋大学の池内敏教授により後半を中心に翻刻されました(注6)。

  以上、メルクマール的な史料の学術研究をざっと見ましたが、研究が進むにつれ、外務省の立場はますます不利になるばかりのようです。

(注1)『御用人日記』5月21日条、および『竹嶋之書付』
(注2)半月城通信<安龍福が見た于山島はチクトウ(竹島)? 下條氏への批判>
 http://www.han.org/a/half-moon/hm128.html#No.947
(注3)塚本孝「竹島関係旧鳥取藩文書および絵図」『レファレンス』411号,1985,P75
(注4)堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987
(注5)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』2000、多賀書店
(注6)池内敏『竹島一件の歴史学的研究』科学研究費成果報告書、2004

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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隠州視聴合記  take_8591

re3)隠州視聴合記      2008/ 4/19 12:40 [ No.16460 / 16480 ]

投稿者 : take_8591


隠州視聴合記は次のように要約されます。
  隠州は北海中にある。
  その南東にある地を島前と言う
  その東にある地を島後と言う
  南に雲州美穂関。南東に伯州赤碕浦。南西に石州温泉津。
  西北に松島竹島がある。
  よって、日本の北西の地は隠州である。


  冒頭にある隠岐島の説明を読んで、隠州が南東にある島前と東にある島後のみにより構成される、という解釈は不自然です。隠州を紹介するのに、南東と東にある地域のみを示して、これで全てだとする論法は無いからです。当然、西又は西北に残りの隠州があると推定されます。
  読み進めると、「西北に松島竹島がある」という文章に当り、納得できるのです。
  松島竹島という地名は、地域名が冠されていません。このことから、松島竹島が雲州・伯州・石州に属さないことが判ります。又、隠州視聴合記において、地域名を冠さない地名が表れた場合、それは全ての場合「隠州の地」を示しています。すると、この松島竹島が「隠州」の松島竹島であることに間違いありません。
  そして、松江藩預り領の隠州とそれ以外の隠州を、間に美穂関・赤碕浦・温泉津を入れることにより区別していることが判ります。


  尚、「此二島無人之地」「見高麗如自雲州望隠岐」は、松島竹島の現況を述べたに過ぎず、領土論を述べたとは考えられません。松江藩官僚が幕府の専管事項を論ずることはありえません。
  敢えて領土論とするならば、大谷村川両家以外の者が松島竹島に行かないのは、松島竹島まで徳川家の威光が行き届いているからである。そして、この威光は朝鮮にまで及んでいる。何故なら、朝鮮にこれほどまでに近い島であるにも関わらず、この40年間松島竹島で一人たりとも朝鮮人を見たことが無いからである。と。



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松島渡海免許について

松島渡海免許について

  川上健三氏は、「万治二(1659)年に阿部四郎五郎が松島渡海に関する幕府の内意を得、寛文 元(1661)年から大谷家の松島渡海が始まったと推測する。 (*1)」と述べます。
  一方、池内敏氏は、「松島渡海免許なるものは存在しないのである。・・・新たな渡海免許の発行ではなく、渡海をめぐる大谷・村川両家の利害調整に過ぎなかった。 (*1)」と述べます。
  これを受けて、半月城さんは、「史料を丹念に検討すれば「松島渡海免許」は存在しないという結論が妥当なところを、川上健三氏は「竹島日本領説」に執着するあまり「松島渡海免許」を創作してしまったようです。ありもしないものを創作する行為、これは捏造といっても過言ではありません。 (*1)」と述べます。

  半月城さんは、「史料を丹念に検討すれば」と言われますが、川上氏と池内氏が同一の史料を元に違う結論に至っていたことが、池内氏の 竹島渡海と鳥取藩 から判ります。私は川上氏の論文を見たことがありませんので、池内氏の論文からその趣旨を推測するしかありません。

  池内氏の主張は、「寛文6(1666)年、大谷船が朝鮮に漂着して対馬藩による所持品検査がなされた際、「竹島渡海免許」は見いだされたが「松島渡海免許」なるものは見当たらない。発行からわずか10年を隔てない時期に、大谷船はなぜゆえに免許を携行しなかったのだろうか。」という疑問から出発します。

  そして、池内氏は、史料4・史料5・史料6・史料7の検討を開始します。尚、これらの史料は川上論文からの引用ですから、両氏は同一の史料を用いたことになります。
  これらの史料から、村川家は単独でも松島渡海を行いたいと言い、大谷家は松島渡海に利益なしという立場で対立していました。そこで、両家は意見調整を阿部に求めていたという状況が判ります。こうした状況を踏まえ、池内氏は結論を歪めます。
  1 1640年代後半ないしは50年代はじめから、右史料傍線部に見られるような松島経営の展望を温めていた村川からすれば、たとえ単独であっても松島渡海事業は行いたかったであろう。そして遅くとも明暦3(1657)年にはそれを実行に移していた。こうして村川単独による松島渡海の既成事実が進められていた以上、阿部四郎五郎の存生中に老中から得たという内意(史料7b)は、松島渡海の新規許可ではありえない。
  2 「市兵衛殿・貴様へ」交付した「証文(史料7c)もまた同様に松島渡海の新規許可ではありえない。それらは「市兵衛殿・貴様」両者へ交付されたものであったから、村川単独により既成事実化された松島渡海を追認し、免許を与えるものともなりえない。
  3 先年渡しておいた「證文」どおりに「船御渡可被成」(史料7d)ともいうのだから、「内意」にしろ証文にしろ、おそらくは村川が先行して進めていた単独での松島渡海を刷新し、大谷・村川双方による渡海事業へと調整する内容をもつものではなかっただろうか。大谷と村川の「談合」(史料5f)や「御相談」(史料7c)を重視したのはその点と関係する。

  しかし、この結論はおかしい。
  1 村川単独による松島渡海の既成事実があるから新規許可ではありえない。というが、既成事実に対して「遡って」新規許可を与えるというのはまま行われていることです。
  2 既成事実化された松島渡海を追認し、免許を与えるものともなりえない。というが、前項と同じです。排他性を持たなかった事業に対し、改めて排他性を与えるという行為に矛盾はありません。
  3 大谷・村川双方による渡海事業へと調整する内容をもつ。というが、この側面を持つことは否定できません。しかし、全面的に「調整」の意義しか持たないというのは言い過ぎでしょう。町人間の調整に老中が乗り出すと考える方が、余程おかしいと思います。

  ところで、史料4「竹島渡海筋松島」・史料5「松島近所之小島」・史料7「竹島之内松島」と表現されていることです。しかも、私の感覚では、段々と竹島松島が一体であるの意が強くなっているような気がします。
  この竹島松島一体の概念は、竹島渡海免許しか持たない村川家がその排他性を主張するために用いたのか、阿部家が両家の調整のために用いたのかは判りませんが、この概念を用いて阿部四郎五郎は老中から「松島渡海の内意」を得ました(史料7b)。
  この様にして得た老中の「松島渡海の内意」とは、既に許可している竹島渡海免許の竹島には「竹島之内松島」が含まれるというものであったと考えられます。竹島という文言の解釈を変え、竹島に松島が含まれると拡大解釈を許したということです。

  すると、前に掲げた池内氏の「発行からわずか10年を隔てない時期に、大谷船はなぜゆえに免許を携行しなかったのだろうか。」という疑問への解答は、携行していた竹島渡海免許が松島渡海免許でもあったからです。寛文六年、竹島渡海の帰りに漂流した大谷船が「寛永初年 竹島渡海免許」の写のみを携行し、松島渡海免許を携行しなかった様に見えるのは蓋(けだ)し当然であったのです。

  結局のところ、池内氏の「松島渡海免許は存在しない」という見解は、幕府の許可=幕府の領有認識を問うものではなく、単に、物体として独立した「松島渡海免許は存在しない」とするものに過ぎないのです。


猛の竹島日記: http://take8591.web.fc2.com/10point/3-010/99001.htm

(*1) http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm106.html#No.778



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幕府と両家は公的・継続的な関係  take_8591

re3)御老中様へ得御内意申候    2008/ 4/19 12:08 [ No.16456 / 16480 ]

投稿者 : take_8591


  池内氏の論文に「史料7」が示されており、そこには「来年より竹島之内松島へ貴様舟御渡之筈に御座候旨、先年四郎五郎御老中様へ得御内意申候」とあります。*1)
  http://take8591.web.fc2.com/06web/9100etc/080417/ss07.jpg
  この意味は、次のようなものであると考えます。
  既に竹島渡海免許は発布済みであるが、来年より「竹島之内松島」への渡海免許を得たいとの申出があったので、老中に伺いを立てたところ、「竹島之内松島であれば、新しく渡海免許を発行するまでも無く、竹島渡海免許の拡大解釈で松島に渡海できる」との御内意を得た。

  現代風にいうと、本庁の課長である阿部四郎五郎が老中の内意を得たと、係長の亀山が民間業者の大谷に渡した文書と考えられます。この様に考えると、立派な公文書であり、松島領有の有力な証拠となります。

  しかし、外務省や島根県が、この文書を示しコメントを加えた事実を知りません。
  「国による資料や認識と個人的なそれとは峻別したいものです*2)」と述べられておられる半月城さんは、「江戸時代の史料に、松島(竹島=独島)は「竹嶋之内松島」「竹嶋近辺松嶋」「竹嶋近所之小嶋」などと書かれました。[No.16447]」と言われています。上記「史料7」は間違いなく公文書なのでしょう。
  又、henchin_pokoider01さんが、「幕府の領有意思を推認できる史料である」というような事を言われていたと記憶しますが、投稿noが判らないので判然としません。


 *1)次の1999年の池内氏の論文「竹島渡海と鳥取藩」より抜粋
   http://www.kr-jp.net/ronbun/ikeuchi/ikeuchi1999.pdf
 *2)本掲示板[No.886]、及び歴史資料から考える独島論争(2007年3月発行)



re3)竹島渡海免許の目的     2008/ 4/19 12:09 [ No.16457 / 16480 ]

投稿者 : take_8591


  1999年の池内氏の論文「竹島渡海と鳥取藩」に次の内容がありました。

  「多聞院日記」天正20(1592)年5月19日条に、伯耆人弥七が「いそたき入参」を持参して奈良興福寺多聞院英俊のもとを訪れたとする記事がある。中村栄考はこの記事から、磯竹島が薬草としての人参の産地として知られていたことを推測する[中村業幸460頁]。
  元和4(1618)年七月、出雲三尾関の住人馬多三伊ら7名が鬱陵島出漁中に漂流して朝鮮に至り、
  元和6(1620)年には、ひそかに竹島渡海を行っていた対馬人弥左衛門・仁右衛門が捕えられて処罰された、
  こうした事例からすれば、寛永1(1624)年竹島渡海免許が大谷・村川両名に発給される以前、偶然の漂着ではなく意識的な竹島渡海を行う者が既に存在した。
  ここで、元和4年に竹島渡海を行ったのは出雲三尾関の住人であった。大谷・村川が竹島渡海を行う際には、米子から出雲雲津を経由して隠岐島後福浦へ渡リ竹島へかったというから、出雲・隠岐の住人が独カで竹島渡海を行うこともありえた。
  そして寛文6(1666)年朝鮮に漂着Lた大谷船の場合、乗員22名の生国の内訳は、伯耆13名・隠岐9名であった(竹島考・大谷之船漂到朝鮮国)。
  万治3年~延宝9(1660-81)年の間の時期には、材木伐採を目的に大谷・村川以外の「他所の者」が竹島に入り込み、「脇より訴訟人達の六ケ敷事出来」という(大谷家2-20.29)。
  また、享保7(1722)年、石見国安濃郡の3名が7年以前に竹島で潜商行為をはたらいたとして処分された(内藤正中1995、16頁)。
  さらに[史料8]に登場する鳥取城下の初期商人石井宗悦は何らかのかたちで竹島渡海に関与しようとした、
  おそらく因幡国も含めて山陰地域の人々には竹島渡海とその利益にあずかる可能性があり、大谷と村川が互いに競争者となりうる可能性すら皆無ではなかつた。
  このように藩領を越えた各地に潜在的に競合する勢カがあったから、大谷・村川は鳥取藩の免許ではなく幕府の免許をこそ求めた。それが「寛永初年竹島渡海免許」であった。そうして競合する勢カを排除しあるいは配下に収めながら、大谷・村川は竹島渡海の利権を排他的に確保Lていった。
  もっとも「竹島渡海免許」は寛永2年(又は元年)の一回限りに発給されたものであり、その後更新されることはなかった。そのため「竹島渡海免許」発給を機に始められた公義御目見と、そこに形成された幕閣とのつながりを誇る由緒が、競合者を排除する役割を補完した。



re3)幕府と両家は公的・継続的な関係     2008/ 4/19 12:25 [ No.16458 / 16480 ]

投稿者 : take_8591


  1999年の池内氏の論文「竹島渡海と鳥取藩」の続きです。

 その大谷・村川の公義御目見は、四、五年に一度ずつ阿部四郎五郎家が寺社奉行へ申入れることによって実現されたから、仲介者が継続の努力を払って初めて維特されるものであった(後述)。とすれぱ、幕府と大谷・村川両家との関係は、必ずしも公的・継続的なものではなく、代々の阿部四郎五郎家による仲介の努力によって維持された私的・不定期の関係であった。
   ・・・・・・・
 ところで、延宝9(1681)年3月29日日、阿部四郎五郎正重は小普請入りとなリ公務を離れることとなった。このためこの年から大谷・村川両家の公儀御目見は鳥取藩が取り持つこととなった。
   ・・・・・・
 これまで大谷・村川・阿部三家は、その代替りごとに竹島渡海に関わって相互に再確認しあい、密接な関係を継続・保持してきた。その関係を前提にして阿部の仲介による大谷・村川の公義御目見が実現し、竹島渡海の利権が護られてきた。それが、延宝9年7月の事態を境にして、公義御目見の取持ちが阿部四郎五郎家から鳥取藩に切り替わった。このとき、新任寺社奉行に対し御目見の先例について鳥取藩が説明しなおしたと同様な意昧合いで、大谷・村川家の側が竹島渡海の先例・由緒について改めて説明しなおす必要があると考えても当然である、それはいきおい由緒正しさを強調することとなったから、竹島渡海の歴史をより古く遡らせて説明することともなった。ここに寛永初年竹島渡海免許を元和四年のものと主張する根拠があった。
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  池内氏は、「幕府と大谷・村川両家との関係は、必ずしも公的・継続的なものではなく、私的・不定期の関係であった。」と言われます。
  (「後述」という部分に読み落としがあるのかも知れませんが、)
  しかし、大谷村川両家は日本の公共資産を排他的に独占使用しているのですから、日本の主権者が4・5年に一度その見直しをするのは当然です。その継続を申請できるのは公的機関だったようです。阿部家が公的機関である立場を失った時、替わって申請手続きを執ったのは公的機関たる鳥取藩でした。

  芹田健太郎の「日本の領土(中公業書)」153頁につぎのとおりです。
  「日本政府はこの領土編入行為を無主地に対する先占行為とは認めておらず、この点に関する日本の主張は、開国以前の日本には国際法の適用はないので、当時にあっては、実際に日本で日本の領土と考え、日本の領土として扱い、他国がそれを争わなけれぱ、それで領有するには充分であった、と認められる、というものである。」

  江戸幕府で竹島松島を担当したのは寺社奉行だったようです。この事から、「実際に日本で日本の領土と考え」「日本の領土として扱」っていたことが確認できます。又、竹島松島渡海事業を「他国がそれを争」った事実はありません。すると「それで領有するには充分であった、と認められる」。



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徳川初期の鬱陵島領有意識  take_8591

re3)徳川初期の鬱陵島領有意識     2008/ 4/15 1:28 [ No.16437 / 16480 ]

投稿者 : take_8591


 通航一覧129巻に次のとおりです。
 http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka49/tukoichiran-1853/3-06.jpg
  元和六庚申年、宗對馬守義成、命によりて、竹島(朝鮮國屬島)に於て潜商のもの二人を捕へて京師に送る(その罪科いま所見なし)、--以下省略--
  ----------------------------
  この様に、鬱陵島に対する警察権を徳川幕府が有していたことが明らかです。
  ここにおいて、「竹島(朝鮮國屬島)」の部分のみを捉えて、初期の徳川政権が鬱陵島を朝鮮領と認識していたと主張する人がいますが、この按記は幕末の徳川政権がしたものであり、この認識の変化に合理的理由があるのですから、かかる主張は成立しません。


 又、万機要覧に次のとおりです。
 http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/mankiyouran.html
  倭人が言うには 「鬱陵島が貴国の領土であったことはよく分かるが、壬辰の乱の後には、日本の所になり、人が占拠していると貴国の 《芝峯類説》に書いてあるのではないか?」と言った。
  首席歴官・朴再興が言うには、「芝峯類説の中には誠にその言葉がある。しかし、あるこれにあるからといって、それを絶対にそのように見てはいけない。壬辰の乱の時に、日本兵が我が境の中に深く入って来て、西方では平安道に至ったし、北では咸境道まで至った。大小の海岸地方の郡邑たちは、皆、乱の兵に占領されたところ、鬱陵一島もそうではない。どうして壬辰乱の時に乱の兵たちが占拠したことをもって言うのか? 類説の所論を援用することはできない。さらに文士の一時的な漫筆で何を明らかに証明するになるか」と言った。
  ----------------------------
  この様に、徳川初期において、鬱陵島は「征服」によって日本領となっていたと、朝鮮政府が認めているのです。朝鮮政府が言っているのは、「併合」とか「割譲」による領有権の移転が無いというものに過ぎません。


 世界2005年6月号に、内藤氏の論文が載っています。
  朝鮮政府は15世紀以来、島に人がいたら倭寇が攻めてくるといって、鬱陵島を無人にする空島政策をとってきていたが、もちろん領有権を放棄したわけではない。米子町人は無人島であるために渡海事業をつづけることができたが、それは空家に持主の了解なしに入り込み、宝物を奪って帰るに似た行為といわねばならず、そうした泥棒行為を外務省のホームページのように、「我が国は、遅くとも17世紀半ばには、実効的支配に基づく竹島の領有権を確立していた」というわけにはゆかないのである。
  ----------------------------
  この様に、国家権力が個人財産を保護している論理を、国家間の領有権問題に適用して我論を維持する学者がいます。鬱陵島開発が「泥棒行為」でないことは上のとおりです。仮に、この論理が許されるとして、「空家に持主の了解なしに入り込み、宝物を奪って帰る・・・行為」を平穏に70年間ものあいだ継続した場合、「時効」による取得が成立するのが普通です。
  尚、元禄期の竹島の話をしていて、結論だけ現竹島の話にしてしまうのは、よく取られる詐術です。




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半月 日本は17世紀半ばに領有権確立



外務省パンフレットへの批判3、(1)     2008/ 4/16 21:08 [ No.16446 / 16480 ]
投稿者 : ban_wol_seong


3.(江戸時代の領有権)
 外務省曰「日本は、鬱陵島に渡る船がかり及び漁採地として竹島を利用し、
  遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました」

  外務省の「竹島」パンフレットは日本が17世紀半ばに「竹島の領有権」を確立した根拠として、大谷・村川両家が竹島=独島を下記のように利用したと記しました。
       --------------------
  隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかりとして、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。
       --------------------

  驚いたことに、パンフレットで外務省のいう根拠はこれがすべてです。一体、以前の公式見解はどうなったのでしょうか? かつての外務省は下記のように主張していました。
       --------------------
  欝陵島への往復の途次、船がかりの地として、またアワビ等の魚採地として利用されていたのが当時松島の名でよばれていた今日の竹島であり、この島に対して大谷、村川両家が、さきの鬱陵島と同じく幕府から渡海免許を受けるようになったのは、明暦2年(1656年)またはそれ以降のことであった。
 ・・・
 『隠州視聴合紀』(1667年)も、松島(今の竹島)及び竹島(鬱陵島)をもって日本の西北の限界と見ている(注1)。
       --------------------

  もし、かつての外務省がいうように、大谷・村川両家が幕府から「松島渡海免許」を受けていたのなら、幕府は竹島=独島に領土意識をもっていたことになり、領有の有力な根拠になります。
  また 1667年当時、隠岐国を管轄する雲州松江藩の命により編纂された『隠州視聴合紀』に竹島・松島が日本の西北の限界であると書かれていたのなら、これも竹島=独島に対する領有の強力な根拠になります。

  しかし、なぜかパンフレットはそうした有力な「根拠」を満載した過去の主張には一切ふれませんでした。特に『隠州視聴合紀』の解釈に関していえば、その解釈をめぐって韓国政府から日本の西北の限界は隠岐であるとの指摘を受けたにもかかわらず、それに対する反論がないばかりか、その後も『隠州視聴合紀』に関して沈黙したままでした。
  これは韓国政府がいうように、やはり日本の西北の限界を竹島・松島とするのは無理だと判明したからではないでしょうか。『隠州視聴合紀』で竹島(欝陵島)は御朱印を受けた船が行く場所と認識されていたのでした。
  外務省に追いうちをかけるように、池内敏氏は日本の西北の限界は竹島・松島でなく、隠岐島であることを論証しました(注2)。また、『隠州視聴合紀』を徹底分析した大西俊輝氏も同様の論証をしました(注3)。

  他方、外務省が「松島渡海免許」についても沈黙しているのは、やはりその主張も無理だと判断したからではないでしょうか。国会図書館の塚本孝氏も渡海免許は「恐らく出されなかった」と記しました(注4)。下條正男氏ですら「松島渡海免許」を主張していないようです。

  日本におけるこのような研究の結果、外務省のかつての主張は音もなく崩れさったようです。それは砂上の楼閣のような存在でした。その結果、外務省はパンフレットに書かれていることくらいしか領有権の根拠を見出せないようですが、それが不十分であることは明らかです。


外務省パンフレットへの批判3、(2)     2008/ 4/16 21:11 [ No.16447 / 16480 ]
投稿者 : ban_wol_seong

  かつて、外務省は江戸時代における領有権の根拠として必要な要件を次のように主張していました。
       --------------------
  開国以前の日本には国際法の適用はないので、当時にあっては、実際に日本の領土として取り扱い、他の国がそれを争わなければ、それで領有するには十分であったと認められる(注5)。
       --------------------

  ここに書かれた「実際に日本の領土として取り扱い」という要件を満たすためには、竹島=独島が官撰書や官撰図などの公文書にしかるべく記載されていることが必要です。しかし、そのような公文書は存在しません。
  公文書では、次節にみるように、史料『竹島之書附』などで竹島=独島は日本領でないとされます。さらに、官撰図でいえば、幕府の絵図や伊能忠敬などの地図に竹島=独島が記載されていないことは周知のとおりです。一方、鳥取藩の一部の地図に竹島=独島が記載されていますが、これは次節にみるように、当の鳥取藩が竹島=独島は自藩領でないと明言しているので問題外です。
  なお、長久保赤水の「日本輿地路程全図」を堀和生氏は官撰地図としていますが、赤水図はたとえ幕府の許可を得たとしても、幕府が発行したものではないので官撰地図とは呼べません。

  結局、日本は17世紀に竹島=独島を「日本の領土」ではないと考えていたことが明らかです。それでは、日本は同島をどこの領土と考えていたのでしょうか?

  江戸時代の史料に、松島(竹島=独島)は「竹嶋之内松島」「竹嶋近辺松嶋」「竹嶋近所之小嶋」などと書かれました。松島は竹島(欝陵島)の属島として扱われたことが明らかです(注6)。
  松島は、松の木が一本もないにもかかわらず松島と呼ばれたのは、竹島とペアで考えられ、縁起物の松竹という発想から命名されたようです。外務省が強調する赤水図でも両島はペアないしは一体に表記され、両島間に「見高麗猶雲州望隠州」などの書き込みがなされました。同図で松島・竹島は密接不可分の関係です。

  つぎに、ペアの一方である竹島(欝陵島)が朝鮮領と考えられていたことは幕府の外交文書を収めた『通航一覧』から明らかです。同書の巻129に「元和六庚申年、宗對島守義成、命によりて、竹島[朝鮮國屬島]に於て潜商のもの二人を捕へて、京師に送る」と書かれ、竹島は朝鮮国の属島とされました。。
  同書にいう潜商とは鷺坂弥左衛門・仁右衛門親子ですが、かれらが磯竹島(欝陵島)で材木を伐っていることが朝鮮に知られ、それを朝鮮通信使から指摘されたので、幕府としてはかれらを捕えざるを得なかったのでした。
  また、かれらを捕えた対馬藩は、かつて欝陵島へ移住したいと朝鮮へ申入れ、それを朝鮮から拒否されたことがありました。このように当時の幕府および対馬藩は欝陵島を朝鮮領と認識していたのでした。

  そのような欝陵島の属島である松島(竹島=独島)で大谷・村川両家が漁獲を行うことは、朝鮮国での密漁ないし略奪行為になることはいうまでもありません。そうした密漁や略奪を重ね、それを根拠に「領有権を確立した」と主張するのは、空き巣犯の居直りではないでしょうか。

(注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両政府の見解」
  『レファレンス』2002.6月号,P52
(注2)池内敏<「隠州視聴合記(紀)」の解釈をめぐって>
  『大君外交と「武威」』2006,P323
(注3)大西俊輝『続日本海と竹島』東洋出版,2007
(注4)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、1996,P2
(注5)外務省情報文化局「竹島の領有権問題の国際司法裁判所への付託につき韓国政府に申入れについて」『海外調査月報』1954年11月,P70
(注6)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院、1996、P74,78,80

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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三峯島

http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/04/1470-sambongdo-was-another-name-of.html

韓国による于山島史料の作為抽出と記録の遡及 opp

  韓国による于山島史料の作為抽出と記録の遡及 | 伝統

  No.54063 投稿者: oppekepe7 作成日:2006-07-03 22:30:10 閲覧数:737



  いつ完成するかわからないHP用に作成中。韓国語版は機械翻訳のため精度は保障しない。
  問題点及び課題があればご指摘下さい。

    oppekepe7 07-03 22:02
   ん。早速太宗実録の編纂年が間違ってた。

   oppekepe7 07-03 23:06
   世宗実録地理誌から三国史記は300年遡及だったな。



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下条正男氏の「規式」について







竹島は日韓どちらのものか h16-04-20 文春新書



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世相実録を優先する理由

re2)世相実録を優先する理由 2008/ 4/25 15:44 [ No.16500 / 16501 ]

投稿者 : take_8591


  世相実録地理誌は1454年に編纂され、輿地勝覧は1530年に編纂されたものです。「鬱陵島から見える島はなにか」を争うのに適している史料はどちらでしょうか。
  後年に編纂された史料は、旧年の史料に新たな知見を加えて編纂されたと解されますから、輿地勝覧を以って争うのが適していると言えます。

  ところが、「世宗実録地理誌がより重要である」と主張する人がいます。
  同書に「于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明であれば望見することができる」とあり、鬱陵島からチェクトは「風日清明」でなくとも見え、リャンコ島は「風日清明」でなければ見ることができないから、「韓国が古くから独島を認識していたという根拠」なのだ。と言うのです。


  どうして、頑なに「輿地勝覧」を拒否するのでしょうか。

  それは、「輿地勝覧」の解は「内陸から鬱陵島が見える」の意であると結論が出ているからです。
  肅宗実録、1694年08月14日の項に次のとおりです。[ No.16242 - 16258 ]
  「鬱陵島は、峰巒と樹木の状態を、内陸でもありありと眺めることができる・・・・と『輿地勝覧』に載っており、歴代に伝えられている。」と。
  →→結論の出ている土俵では争わない方針の様です。


  又、「鬱陵島からリャンコ島が見えるか」という命題も結論が出ています。
  朝鮮は多くの鬱陵島検察をしていますが、1694年に「300里先に鬱陵島の1/3程の島を見た」と報告し、1882年には「山に登って四望したが、海中の先に一点の島嶼の見形無し」と報告しています。この2回以外では「望見する」ことすら思いつかなっかたと考えられます。
  「知っていますか日本の島(自由国民社)」に下條正男氏の論文があり、その21頁に氏自身が「2000年9月上旬、鬱陵島の独島展望台に行ってみて、そこの売店のおばさんに「独島は見えますか」と聞いてみたが、「今年は7月に一度見えただけ」とのことで、「晴れた日には見える」ということではないらしい。」と記しています。
  これらの資料から判断するに、「風日清明」なる日は年に数日しかないものとしなければなりません。それでも「見える」と主張するのでは、最早、領有権争いではありません。
  しかし、「見える」と難癖を付けられるのは「世宗実録地理誌」しかありませんから、これにこだわり続けるのです。→→論破されていないと主張できる余地がある限り諦めない方針の様です。


  光海君・肅宗・高宗の朝鮮王が鬱陵島にかかる意思決定に、「輿地勝覧」を用い「世相実録地理誌」を用いていません。それでも尚、「世宗実録地理誌がより重要である」との認識を持ち続けるのは合理的ではありません。非合理な意図がここから読み取れます。



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韓国の竹島認識 take_8591



2)韓国の竹島認識 1 2008/ 4/12 19:30 [ No.16416 / 16480 ]

投稿者 : take_8591



2 韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。

  2-1  韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。例えば、韓国側は、朝鮮の古文献『三国史記』(1145年)、『世宗実録地理誌』(1454年)や『新増東国輿地勝覧』(1531年)、『東国文献備考』(1770年)、『萬機要覧』(1808年)、『増補文献備考』(1908年)などの記述をもとに、「鬱陵島」と「于山島」という二つの島を古くから認知していたのであり、その「于山島」こそ、現在の竹島であると主張しています。
  -------------[ No.16409 ]-----------------------
  外務省のいう「韓国側」とは何を指すのか不明ですが、少なくとも韓国政府が日本政府に宛てた公式の反論に『三国史記』は登場しません。外務省は幻の主張に振りまわされる
  -------------[ 私  見 ]-----------------------
  韓国中央政府が「竹島問題」にどの様な考え方をしているのか、これを知るべき日本語サイトは存在しません。そこで、慶尚北道のサイト(*01)を見ると、【半月城通信】が強くリンクされていました。「外務省のいう韓国側」の一つに、半月城さんのサイトがあると想われます。
  *01) http://www.dokdo.go.kr/for/index.php?lang_code=JAP
  ------------------------------------------------


  2-2 しかし、『三国史記』には、于山国であった鬱陵島が512年に新羅に帰属したとの記述はありますが、「于山島」に関する記述はありません。また、朝鮮の他の古文献中にある「于山島」の記述には、その島には多数の人々が住み、大きな竹を産する等、竹島の実状に見合わないものがあり、むしろ、鬱陵島を想起させるものとなっています。
  -------------[ No.16409 ]-----------------------
  一方で、重要な『世宗実録』地理誌への反論はないようです。
  同書に「于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明であれば望見することができる」とあります
  -------------[ 私  見 ]-----------------------
  この記事は「韓国が古くから竹島を認識していたという根拠」として、かつての韓国政府が強く主張したのでした。しかし、独島展望台から年間何日独島が見えるのか、というレポートは一切為されていません。年間に少なくとも1日は独島が見える事は確認できているようですが、このことで「風日淸明, 則可望見」が証明出来ているとは考えられません。
  ------------------------------------------------



2)韓国の竹島認識 2 2008/ 4/12 19:36 [ No.16417 / 16480 ]

投稿者 : take_8591



2 韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。

  2-3 また、韓国側は、『東国文献備考』、『増補文献備考』、『萬機要覧』に引用された『輿地志』(1656年)を根拠に、「于山島は日本のいう松島(現在の竹島)である」と主張しています。これに対し、『輿地志』の本来の記述は、于山島と鬱陵島は同一の島としており、『東国文献備考』等の記述は『輿地志』から直接、正しく引用されたものではないと批判する研究もあります。その研究は、『東国文献備考』等の記述は安龍福の信憑性の低い供述(5.参照)を無批判に取り入れた別の文献(『彊界考』(『彊界誌』)、1756年)を底本にしていると指摘しています。
  -------------[ No.16409 ]-----------------------
  この文に外務省の調査不足が露呈しているようです。というのも、
  -------------[ 私  見 ]-----------------------
  『輿地志』(1656年)に「于山島は日本のいう松島(現在の竹島)である」なんて記載されていないからです。要するに、上に掲げた文献は改竄されたということです。
  ------------------------------------------------


  2-4 なお、『新増東国輿地勝覧』に添付された地図には、鬱陵島と「于山島」が別個の2つの島として記述されています。もし、韓国側が主張するように「于山島」が竹島を示すのであれば、この島は、鬱陵島の東方に、鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずです。しかし、この地図における「于山島」は、鬱陵島とほぼ同じ大きさで描かれ、さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位置している等、全く実在しない島であることがわかります。
  -------------[ No.16412 ]-----------------------
 そもそも絵図は地図と違って、不正確なのが特徴です。しかも『東国輿地勝覧』のように16世紀の絵図とあっては、離島などはその位置や大きさなど、ほとんどデタラメに近くて当然です。
  外務省は、于山島は「鬱陵島よりはるかに小さな島として描かれるはずです」と記しましたが、そうした批判は絵図でなく地図に向けられるべきです。
  これは単に東海に于山・欝陵の二島が存在するという空間認識を表現したと理解すべきであり、それ以上の議論は本末転倒です。
  -------------[ 私  見 ]-----------------------
  たとえ絵図であっても、東に在るものは東に描かれるべきでしょう。これを西に描いたのですから、「知らなかった」と判断するのは当然です。この事実から逃げた論理展開をするのでは議論になりません。
  尚、現竹島が西島と東島で構成されているという認識は、李氏朝鮮・大韓帝国においてありませんでした。この認識は、大韓民国において始めて得られました。
  ------------------------------------------------


    于山則 倭所謂 松島也



Re: 2)韓国の竹島認識 2 2008/ 4/12 22:31 [ No.16419 / 16501 ]
投稿者 : take_8591


 http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/mankiyouran.html
 によれば

  『萬機要覧』の該当部分はは、「文献備考曰 鬱陵島 在蔚珍 正東海中」から始まります。続いて、鬱陵島の地理・産物が語られます。
  その後、「新羅取之、後恐導倭為寇、刷出」・・・「高麗太祖」・・・「本朝 太宗」・・・「世宗二十年」・・・「成宗二年」・・・「輿地志云 鬱陵・于山 皆于山國地 于山則 倭所謂 松島也」「光海七年」・・・「載在輿地」・・・「粛宗十九年」と続きます。
  この様に、歴史的な事実を列記している中で、「輿地志云・・・」が記されています。即ち、1656年に起こった事実として、「輿地志云・・・」が記されています。しかし、1656年に発生した事実は「輿地志云 鬱陵・于山 皆于山國地」迄なのです。「于山則 倭所謂 松島也」は改竄された事実となります。
  もし、「于山則 倭所謂 松島也」が文献備考の編者の按記であるならば、それが適当な位置は、「龍福の供述はデタラメだが、この部分は信用できる」の意を込めて、龍福の供述の後に按記されるべきでしょう。

  しかし、萬機要覧を読み返すと、「光海七年」の出来事として「輿地志に載っている」と記されているのです。「光海七年(1615年)」に存在した「輿地志」とは如何なる文献なのでしょうか。光海君実録に依ると、「輿地志」ではなく「輿地勝覽」なのです。
  又、「光海七年(1615年)」に「倭所謂松島」は存在しないのです。


  こうなると、私の小さな頭脳ではまとめ切れません。要するに、「文献備考」の編者は、時間軸を無視したSF小説を書き上げたのでしょう。そして、李氏朝鮮の官僚は、原典に当たることをせず、SF小説を丸呑みする習性を持っていたのでしょうね。



re2)1656 - 柳馨遠 『輿地志』     2008/ 4/25 15:56 [ No.16501 / 16501 ]

投稿者 : take_8591


http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/02/1656.html
に次のとおりです。

Friday, February 22, 2008
1656 - 柳馨遠 『輿地志』 (「東国興地志」巻之七 江原道 蔚珍)


  柳馨遠(1622~1673)は、朝鮮王朝、顕宗王の時の実学者で、1656年に全国地理の本である「東國輿地志」を編纂しました。(ソウル大学奎章閣サイト・韓国語 )


  韓国側は「東国文献備考・與地考」(1770)や「萬機要覧」(1808)に「輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の所謂松島なり」と言う引用がある事を挙げ、安龍福の渡航や日本よりも古い文献に倭の松島(現在の竹島)が于山島だと認識していたという論拠としてきました。この本は長く遺失されたとされてきましたが、2006年に済州大学の呉相学氏によって確認された「東国興地志」には下記のように書かれており、実際は従来からの日本側の主張のように、「于山は即ち倭の所謂松島なり」と言う記述は無かったことが明らかになりました。

  「于山島鬱陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説干山 鬱陵 本一島 地方百里」

  ちなみにこれは「新増東国輿地勝覧」 の記録をそのまま引用していることが分かります。

  「于山島鬱陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説干山 鬱陵 本一島 地方百里」

  安龍福の竹島一件の後、安の証言である「于山は即ち倭の所謂松島なり」という言葉が「輿地志」に書かれてあったと言う、誤った記述が、1700年以降の「東国文献備考」や「萬機要覧」を始めとする朝鮮の書物に登場するようになり、韓国側もこれらの文献をを根拠に于山島が竹島・独島(倭の松島)であると主張します。しかし、以下のように文献を年代にそって並べると、申景濬が1756年の「疆界誌」の中で輿地志の記録の後に“所謂松島 ”と言う自説を追記していること、1770年の「東国文献備考・與地考」でそれを「輿地志」の記述であるかのように書き変えている事が明確に分かります。以降に編纂された「萬機要覧」 「増補文献備考 輿地考」は、原著である「輿地志」からではなく、「東国文献備考・與地考」からの孫引きで引用している為、この誤記が受け継がれていったようです。

 1756 - 申景濬「疆界誌」『旅菴全書』巻之七 「疆界考」十二 鬱陵島
    「按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島
     而考諸圖志二島也 一則其所謂松島
     而蓋二島 倶是于山國也」

 1770 - 申景濬・洪啓禧 「東国文献備考・與地考」 
    「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」

 1808 - 「萬機要覧 軍政篇 (1937 朝鮮総督府)」
    「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地. 于山則倭所謂松島也.」

 1908 - 李萬運「増補文献備考 輿地考」
    「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地. 于山則倭所謂松島也」

  このように流れを追っていくと、申景濬が「東国文献備考・與地考」を編纂する際に、自分の意見をあたかも輿地志からの引用であるかの如く改竄している事が分かります。、誤記であることが明らかな文献を根拠として領土の根拠として主張することは、愚かであると言わざるを得ないのです。



re2)1756年と1770年の申景濬      2008/ 4/30 20:16 [ No.16514 / 16520 ]

投稿者 : take_8591


  -----半月城さん-----[ No.16410 ]-----------------------
  古文書は日本のみならず韓国や中国でも句読点が一切ありません。したがって、この場合でも分註のどこまでが引用で、どこからが申景濬の見解なのかはっきりしません。・・・『東国文献備考』の場合は、「欝陵 于山は皆 于山国の地」が引用文であり、それ以下の「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」は申景濬の見解であることが『輿地志』からわかります。
  -------------------------------------------------------

  申景濬は、引用文と私見を区別する方法を知らなかったのでしょうか。
  1756年には、引用文を「輿地志云 一説于山鬱陵本一島」と記し、私見を「而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島 倶是于山國也」と表しています。間に「而考」を挿入することにより、引用文と私見を区別しています。
  ところが、1770年になると「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」と記しています。この様に表すと、その全てが引用文と解されます。
  この間16年で、申景濬はボケてしまった。というのが半月城さんの意見です。

  もし、申景濬に史書改竄の意図が無ければ、「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地」「而考龍福供述」「于山則倭所謂松島也」としたでしょう。1756年に知っていた手法を1770年に使わなかったという事実は、改竄の意図があったと判断せざるをえません。


  尚、この問題が解決した場合でも、この按記が挿入された場所の問題は残ります。



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半月 韓国は古くから独島を認識していた

外務省パンフレットへの批判2  (1) 2008/ 4/12 13:46 [ No.16409 / 16480 ]

投稿者 : ban_wol_seong


2.「韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません」

  パンフレットは、この表題につづけて韓国の主張をこう記しました。
       --------------------
  例えば、韓国側は、朝鮮の古文献『三国史記』(1145年)、『世宗実録地理誌』(1454年)や『新増東国輿地勝覧』(1531年)、『東国文献備考』(1770年)、『萬機要覧』(1908年)などの記述をもとに、「鬱陵島」と「于山島」という二つの島を古くから認知していたのであり、その「于山島」こそ、現在の竹島であると主張しています。
       --------------------

  外務省のいう「韓国側」とは何を指すのか不明ですが、少なくとも韓国政府が日本政府に宛てた公式の反論に『三国史記』は登場しません(注1)。外務省は幻の主張に振りまわされる一方で、重要な『世宗実録』地理誌への反論はないようです。
  同書に「于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明であれば望見することができる」とありますが、この記事こそ「韓国が古くから竹島を認識していたという根拠」として韓国政府が強く主張したのでした。
  かつて、外務省の川上健三氏はその主張に反論するため、欝陵島から竹島=独島は見えないと主張したくらいでした。その主張は、欝陵島で少し高いところへ行けば充分見えると反論され、川上氏の努力は徒労に終りました。それほど重要な文献である『世宗実録』地理誌にパンフレットは一言もないようです。

  つぎに、パンフレットはこう記しました。
       --------------------
  また、韓国側は、『東国文献備考』、『増補文献備考』、『萬機要覧』に引用された『輿地志』(1656年)を根拠に、「于山島は日本のいう松島(現在の竹島)である」と主張しています。これに対し、『輿地志』の本来の記述は、于山島と鬱陵島は同一の島としており、『東国文献備考』等の記述は『輿地志』から直接、正しく引用されたものではないと批判する研究もあります。その研究は、『東国文献備考』等の記述は安龍福の信憑性の低い供述(5.参照)を無批判に取り入れた別の文献(『彊界考』(『彊界誌』)、1756年)を底本にしていると指摘しています。
       --------------------

  この文に外務省の調査不足が露呈しているようです。というのも、『輿地志』の本来の記述は、決して「于山島と欝陵島は同一の島」としているのではなく、別々の島であると記述しているからです。ここにいう『輿地志』は柳馨遠『東国輿地志』とされますが、同書の口語訳は下記の通りです(注2)。
       --------------------
于山島、欝陵島
  一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある。三峰が高くけわしく空にそびえている。南の峯はすこし低い。天候が清明なら峯のてっぺんの樹木やふもとの砂浜、渚を歴々と見ることができる。風にのれば、二日で到着できる。一説によると于山、欝陵島は本来一島という。その地の大きさは百里である。
       --------------------

  この文は官撰書である『東国輿地勝覧』と完全に同じです。といっても剽窃ではありません。元来『輿地志』は、その「凡例」に断り書きがあるように、目的は『東国輿地勝覧』の「増修」にありました。
(つづく)



外務省パンフレットへの批判2、(2) 2008/ 4/12 13:47 [ No.16410 / 16480 ]

投稿者 : ban_wol_seong


  当時、名著の『東国輿地勝覧』は出版後 200年近く経過し、その間に変動が多々あったので、その増補を目的に『輿地志』が書かれたのでした。したがって、于山島のように変動がない記述はそのままにされました。
  つまり『東国輿地勝覧』も『輿地志』も于山島と欝陵島を別々の島とし、一島説を単なる一説として書いたのでした。したがって、外務省の解釈は明らかに誤りです。
  外務省がそのような初歩的な誤りを犯したのは、パンフレットが述べる、ある「研究」をウノミにしたからでしょうか。その研究とは下條正男氏の研究を指すようです。下條氏はこう記しました。
       --------------------
  オリジナルの『輿地志』では、「一説に于山鬱陵本一島」と于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)としているが、松島(現在の竹島)にはまったく言及していなかった、ということである(注3)。
       --------------------

  下條正男氏のように、資料の一部分だけを意図的に取りあげれば、資料の著者の見解とは正反対の解釈すら可能です。『輿地志』は本説で于山島と欝陵島を別々の島にし、一説で両島は本来一島としたのですが、下條氏は一説の記述のみをとりあげ、『輿地志』の見解とは正反対の見解を、さも『輿地志』の見解であるかのように記しました。
  これは下條氏のいつもながらの我田引水的な手法なので驚くにはあたらないのですが、外務省はその誤った恣意的な解釈をそのまま信じ、原典を確認するという基本的な作業を怠ったたようです。
  その埋め合わせなのか、外務省は下條氏の見解を同省の公式見解とせず、そうした「研究もある」と周到に逃げ道を用意してパンフレットを製作したようです。姑息なやり方ではないでしょうか。

  パンフレットの説明では『輿地志』と『彊界考』などの関係がわかりにくいのですが、『輿地志』は申景濬により『疆界考』および官撰書である『東国文献備考』の分註に次のように引用されました。

『疆界考』(1756)
  按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 欝陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり

『東国文献備考』「輿地考」(1770)
  輿地志がいうには 欝陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり

  一般に、古文書は日本のみならず韓国や中国でも句読点が一切ありません。したがって、この場合でも分註のどこまでが引用で、どこからが申景濬の見解なのかはっきりしません。
  『輿地志』の原文を分析すると、『疆界考』の場合は下條氏がいうように「一説に于山 欝陵は 本一島」が『輿地志』の引用文であり、それ以下は申景濬の見解であることがわかります。申景濬は『輿地志』や『東国輿地勝覧』に参考として書かれた一説(一島二名説)を完全に否定するため、ことさら『疆界考』でその一説を特記したとみられます。その一方、当時は本説である二島二名説は自明であったためか、分註で特にふれなかったと見られます。

  つぎに『東国文献備考』の場合は、「欝陵 于山は皆 于山国の地」が引用文であり、それ以下の「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」は申景濬の見解であることが『輿地志』からわかります。
  一時、私は『東国文献備考』においての引用文献名を『疆界考』とすべきなのに申景濬は誤って『輿地志』にしたのではないかと考えたこともありました。しかし、やはり上記のように解釈するのが妥当ではないかと思います。もちろん、くだんの下條正男氏がいうような史書の「改竄」などはなかったというべきです。
(つづく)



外務省パンフレットへの批判2、(3) 2008/ 4/12 14:03 [ No.16412 / 16480 ]

投稿者 : ban_wol_seong


  おわりにパンフレットは『新増東国輿地勝覧』の付属絵図を批判しましたが、そもそも絵図は地図と違って、不正確なのが特徴です。しかも『東国輿地勝覧』のように16世紀の絵図とあっては、離島などはその位置や大きさなど、ほとんどデタラメに近くて当然です。
  外務省は、于山島は「鬱陵島よりはるかに小さな島として描かれるはずです」と記しましたが、そうした批判は絵図でなく地図に向けられるべきです。
  その点、外務省が竹島=独島を「的確に記載している地図」としている長久保赤水の「地図」には外務省の批判がストレートに当てはまります。同図は竹島と松島を同じくらいの大きさで描いているので、外務省の「大きさ」批判にまったく耐えられません。さらに、同図における竹島・松島の位置は、もちろん実際とは違っています。

  19世紀の赤水の地図ですらこのような有様です。ましてや16世紀の絵図を取りあげて、何か議論すること自体、ほとんど無意味です。絵図は、単に当時の人々の空間認識を絵で表現したにすぎません。
  さきの『新増東国輿地勝覧』の付属絵図でいえば、これは単に東海に于山・欝陵の二島が存在するという空間認識を表現したと理解すべきであり、それ以上の議論は本末転倒です。

(注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両政府の見解」『レファレンス』2002.6月号
(注2)『東国輿地志』「于山島 欝陵島」の原文
 www.kr-jp.net/rok/jiri/yojiji-usan.pdf
(注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004,P100

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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半月 日本は古くから竹島の存在を認識

外務省パンフレットへの批判1   2008/ 4/12 13:07 [ No.16407 / 16480 ]

投稿者 : ban_wol_seong

  半月城です。
  外務省は、これまで北方領土問題に関するパンフレットは熱心に発行しても、竹島=独島問題に関するパンフレットはまったく発行しませんでした。ところが今年2月、北東アジア課が「竹島問題を理解するための10のポイント」と題してパンフレットを初めて発行したので注目されます。
  そのパンフレットで一番の注目は、竹島=独島を版図外とした明治政府の太政官指令をどう記述するのかという点でした。しかし、その記述はなく、肩すかしに終りました。

  かつて、外務省は韓国の通信社「聯合ニュース」から <日本政府は「獨島は日本と関係がない」と結論付けた『太政官指令文』の内容をどのように評価されますか>との質問を受けていました。
  これに対して外務省は「太政官指令文の存在を知っている。この問題に対しては現在調査中であり、現時点で答えることはできない」とか、「まだ調査中」との回答のまま現在に至りました(注1)。
  それから2年も経つのに、外務省が今回のパンフレットでも太政官指令にまったくふれなかったのは、外務省にとって都合の悪い資料は公にしない方針なのか、それともその事実を内外にどう公表すべきかで結論がでなかったのか、ともかく煮え切らない態度です。
  この太政官指令は同省の主張する「竹島は日本の固有領土」というキャッチフレーズに反するだけに、同省にとってはアキレス腱的な存在になっているようです。

  その点、島根県は潔く太政官指令を認める公式見解を出しました。それを『フォトしまね』161号「竹島特集」に見ることができます。同書は、<太政官は、同島(欝陵島)と外一島を「本邦関係無之」とし、日本領でないとの認識を示した。外一島とは、現在の竹島とみられる>と記しました。
  すなわち、島根県は太政官が竹島=独島を版図外にしたと解釈しました。いずれ外務省も島根県の見解に賛成するのでしょうか。

  外務省は、このように最も肝心なことを隠したままパンフレットを発行したのですが、一事が万事、外務省にとって都合の悪い資料は公表しない姿勢で一貫しているようです。その具体例はおいおい書くことにして、このシリーズではパンフレットを項目順に見ることにします。

1.「日本は古くから竹島の存在を認識していました」
  パンフレットは日本が竹島=独島を熟知していた例として長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(赤水図)の1846年版を載せました。赤水図は7回改訂されたのですが、1846年版は6回目の改訂であり、弘化版とよばれます。
  パンフレットは、本文で赤水図の初版を1779年と紹介しながら、資料価値の高い初版である安永版の地図を載せず、かわりに弘化版をカラーで載せたのですが、これはどうもふに落ちません。

  よく知られているように、安永版は諸国の色分けに際し、竹島・松島の色を隠岐国とは異なり、朝鮮と同様に無色にしました。もし、この安永版を載せたら、見る人に竹島・松島は日本領外であるとの印象を与えかねないので、わざわざ竹島・松島が隠岐国と同じ色に彩色された弘化版を選んだのでしょうか。
  さらに気になるのは、なぜ外務省は赤水図を持ちだしたのでしょうか。領有権論争において重要なのは官撰書や官撰図であり、赤水図などの私撰図は単なる参考でしかありません。
  そうした観点からすると、官撰書の『隠州視聴合紀』は、日本が竹島=独島の存在を知っていた好例ですが、これにパンフレットは一言もふれていません。これらの問題については第3回「領有権」のところで書く予定です。

(注1)保坂祐二「<竹島問題研究会>「最終報告書」の問題点」『独島=竹島論争』(韓国語)ポゴサ刊、2008、P244

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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◎ ICJに付託を提案する


10 日本は竹島の領有権に関する問題を国際司法裁判所に付託することを提案していますが、韓国がこれを拒否しています。

  10-1 我が国は、韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、累次にわたり抗議を積み重ねました。そして、この問題の平和的手段による解決を図るべく、1954(昭和29)年9月、口上書をもって竹島の領有権問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案しましたが、同年10月、韓国はこの提案を拒否しました。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣より崔徳新韓国外務部長官に対し、本件問題を国際司法裁判所に付託することを提案しましたが、韓国はこれを受け入れず、現在に至っています。

  10-2 国際司法裁判所は、紛争の両当事者が同裁判所において解決を求めるという合意があって初めて動き出すという仕組みになっています。したがって、仮に我が国が一方的に提訴を行ったとしても、韓国側がこれに応ずる義務はなく、韓国が自主的に応じない限り国際司法裁判所の管轄権は設定されないこととなります。

  10-3 1954年に韓国を訪問したヴァン・フリート大使の帰国報告(1986年公開)には、米国は、竹島は日本領であると考えているが、本件を国際司法裁判所に付託するのが適当であるとの立場であり、この提案を韓国に非公式に行ったが、韓国は、「独島」は鬱陵島の一部であると反論したとの趣旨が記されています。



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◎ 韓国の竹島不法占拠へ厳重に抗議


9 韓国は竹島を不法占拠しており、我が国としては厳重に抗議をしています。

  9-1 1952(昭和27)年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行って、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し、そのライン内に竹島を取り込みました。

  9-2 1953(昭和28)年3月、日米合同委員会で竹島の在日米軍の爆撃訓練区域からの解除が決定されました。これにより、竹島での漁業が再び行われることとなりましたが、韓国人も竹島やその周辺で漁業に従事していることが確認されました。同年7月には、不法漁業に従事している韓国漁民に対し竹島から撤去するよう要求した海上保安庁巡視船が、韓国漁民を援護していた韓国官憲によって銃撃されるという事件も発生しました。

  9-3 翌1954(昭和29)年6月、韓国内務部は韓国沿岸警備隊の駐留部隊を竹島に派遣したことを発表しました。なお、同年8月には、竹島周辺を航行中の海上保安庁巡視船が同島から銃撃され、これにより韓国の警備隊が竹島に駐留していることが確認されました。

  9-4 韓国側は、現在も引き続き警備隊員を常駐させるとともに、宿舎や監視所、灯台、接岸施設等を構築しています。

  9-5 韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。このような行為は、竹島の領有権をめぐる我が国の立場に照らして決して容認できるものではなく、竹島をめぐり韓国側が何らかの措置等を行うたびに厳重な抗議を重ねるとともに、その撤回を求めてきています。



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◎ 竹島が在日米軍の訓練区域になる


8 竹島は、1952年、在日米軍の爆撃訓練区域として指定されており、日本の領土として扱われていたことは明らかです。

  8-1 我が国がいまだ占領下にあった1950(昭和25)年7月、連合国総司令部は、連合国総司令部覚書(SCAPIN)第2160号をもって、竹島を米軍の海上爆撃演習地区として指定しました。

  8-2 1952(昭和27)年7月、米軍が引き続き竹島を訓練場として使用することを希望したことを受け、日米行政協定(注:旧日米安保条約に基づく取極。現在の日米地位協定に引き継がれる。)に基づき、同協定の実施に関する日米間の協議機関として設立された合同委員会は、在日米軍の使用する爆撃訓練区域の一つとして竹島を指定するとともに、外務省はその旨を告示しました。

  8-3 日米行政協定によれば、合同委員会は「日本国内の施設又は区域を決定する協議機関として任務を行う。」とされていました。したがって、竹島が合同委員会で協議され、かつ、在日米軍の使用する区域としての決定を受けたということは、とりも直さず竹島が日本の領土であることを示しています。



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◎ SF条約で韓国の要請は拒否された



7 サンフランシスコ平和条約起草過程で、韓国は、日本が放棄すべき領土に竹島を含めるよう要請しましたが、米国は竹島が日本の管轄下にあるとして拒否しました。

  7-2 1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。

  7-3 この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。

  7-4 この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。
    「 ・・・合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」
    これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。

  7-5 また、ヴァン・フリート大使の帰国報告(10.参照)にも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の結論であると記されています。



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◎ 1905年に領有する意思を再確認



6 日本政府は、1905年、竹島を島根県に編入して、竹島を領有する意思を再確認しました。

  6-1 今日の竹島において、あしかの捕獲が本格的に行われるようになったのは、1900年代初期のことでした。しかし、間もなくあしかの捕獲は過当競争の状態となったことから、島根県隠岐島民の中井養三郎は、その事業の安定を図るため、1904(明治37)年9月、内務・外務・農商務三大臣に対して「りやんこ島」(注)の領土編入及び10年間の貸し下げを願い出ました。
   (注)「りやんこ島」は、竹島の洋名「リアンクール島」の俗称。当時、ヨーロッパの探検家の測量の誤りなどにより、鬱陵島が従来の「竹島」に加え「松島」とも呼ばれるようになり、現在の竹島は従来の「松島」とともに、「りやんこ島」と呼ばれるようになっていました。

  6-2 中井の出願を受けた政府は、島根県の意見を聴取の上、竹島を隠岐島庁の所管として差し支えないこと、「竹島」の名称が適当であることを確認しました。これをもって、1905(明治38)年1月、閣議決定によって同島を「隠岐島司ノ所管」と定めるとともに、「竹島」と命名し、この旨を内務大臣から島根県知事に伝えました。この閣議決定により、我が国は竹島を領有する意思を再確認しました。

  6-3 島根県知事は、この閣議決定及び内務大臣の訓令に基づき、1905(明治38)年2月、竹島が「竹島」と命名され隠岐島司の所管となった旨を告示するとともに、隠岐島庁に対してもこれを伝えました。なお、これらは当時の新聞にも掲載され広く一般に伝えられました。

  6-4 また、島根県知事は、竹島が「島根県所属隠岐島司ノ所管」と定められたことを受け、竹島を官有地台帳に登録するとともに、あしかの捕獲を許可制としました。あしかの捕獲は、その後、第二次世界大戦によって1941(昭和16)年に中止されるまで続けられました。



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X 勅令41号で領有の要件が完全に


6 大韓帝国は、1900年、石島が鬱陵郡の管轄下にあると宣言しましたが、石島の位置を明らかにせず、又石島への行政行為を行いませんでした。

  6-5 朝鮮では、1900年の「大韓帝国勅令41号」により、鬱陵島を鬱島と改称するとともに島監を郡守とする旨公布した記録があるとされています。そして、この勅令の中で、鬱陵郡が管轄する地域を「鬱陵全島と竹島、石島」と規定しており、この「竹島」は鬱陵島の近傍にある「竹嶼(ちくしょ)」という小島であるものの、「石島」はまさに現在の「独島」を指すと指摘する研究者もいます。その理由は、韓国の方言で「トル(石)」は「トク」とも発音され、これを発音どおりに漢字に直せば「独島(トクド)」につながるためというものです。

  6-6 しかし、「石島」が今日の竹島(「独島」)であるならば、なぜ勅令で「独島」が使われなかったのか、また、韓国側が竹島の旧名称であると主張する「于山島」等の名称が使われなかったのか、また、「独島」という呼び名はいつからどのように使われるようになったのか、という疑問が生じます。

  6-7 いずれにせよ、仮にこの疑問が解消された場合であっても、同勅令の公布前後に、朝鮮が竹島を実効的に支配してきたという事実はなく、韓国による竹島の領有権は確立していなかったと考えられます。



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X 安龍福が独島領有を確かなものに


5 韓国が自国の主張の根拠として用いている安龍福の供述には、多くの疑問点があります。

  5-1 幕府が鬱陵島へ渡航を禁じる決定をした後、安龍福は再び我が国に渡来しました。この後、再び朝鮮に送還された安龍福は、鬱陵島への渡航の禁制を犯した者として朝鮮の役人に取調べを受けますが、この際の安龍福の供述は、現在の韓国による竹島の領有権の主張の根拠の一つとして引用されることになります。

  5-2 韓国側の文献によれば、安龍福は、来日した際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取ったと供述したとされています。しかし、日本側の文献によれば、安龍福が1693年と1696年に来日した等の記録はありますが、韓国側が主張するような書契を安龍福に与えたという記録はありません。

  5-3 さらに、韓国側の文献によれば、安龍福は、1696年の来日の際に鬱陵島に多数の日本人がいた旨述べたとされています。しかし、この来日は、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後のことであり、当時、大谷・村川両家はいずれも同島に渡航していませんでした。

  5-4 安龍福に関する韓国側文献の記述は、同人が、国禁を犯して国外に渡航し、その帰国後に取調べを受けた際の供述によったものです。その供述には、上記に限らず事実に見合わないものが数多く見られますが、それらが、韓国側により竹島の領有権の根拠の一つとして引用されてきています。



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◎ 元禄期に竹島渡航を禁止していない


4 日本は、17世紀末、鬱陵島への渡航を禁止しましたが、竹島への渡航は禁止しませんでした。

  4-1 幕府より鬱陵島への渡航を公認された米子の大谷・村川両家は、約70年にわたり、他から妨げられることなく独占的に事業を行っていました。

  4-2 1692年、村川家が鬱陵島におもむくと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。また、翌年には、今度は大谷家が同じく多数の朝鮮人と遭遇したことから、安龍福、朴於屯(パク・オドゥン)の2名を日本に連れ帰ることとしました。なお、この頃の朝鮮王朝は、同国民の鬱陵島への渡航を禁じていました。

  4-3 状況を承知した幕府の命を受けた対馬藩(江戸時代、対朝鮮外交・貿易の窓口であった。)は、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡航禁制を要求する交渉を開始しました。しかし、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得るに至りませんでした。

  4-4 対馬藩より交渉決裂の報告を受けた幕府は、1696年1月、朝鮮との友好関係を尊重して、日本人の鬱陵島への渡航を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されています。

  4-5 その一方で、竹島への渡航は禁止されませんでした。このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかです。



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◎ 日本は17世紀半ばに領有権確立


3 日本は、鬱陵島に渡る船がかり及び漁採地として竹島を利用し、遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。

  3-1 1618年(注)、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛は、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の「竹島」)への渡海免許を受けました。これ以降、両家は交替で毎年年1回鬱陵島に渡航し、あわびの採取、あしかの捕獲、竹などの樹木の伐採等に従事しました。
    (注)1625年との説もあります。

  3-2 両家は、将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたてて鬱陵島で漁猟に従事し、採取したあわびについては将軍家等に献上するのを常としており、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行っていました。

  3-3 この間、隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかりとして、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。

  3-4 こうして、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していたと考えられます。

  3-5 なお、当時、幕府が鬱陵島や竹島を外国領であると認識していたのであれば、鎖国令を発して日本人の海外への渡航を禁止した1635年には、これらの島に対する渡航を禁じていたはずですが、そのような措置はなされませんでした。



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X 韓国は古くから独島を認識していた




2 韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。

  2-1  韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。例えば、韓国側は、朝鮮の古文献『三国史記』(1145年)、『世宗実録地理誌』(1454年)や『新増東国輿地勝覧』(1531年)、『東国文献備考』(1770年)、『萬機要覧』(1808年)、『増補文献備考』(1908年)などの記述をもとに、「鬱陵島」と「于山島」という二つの島を古くから認知していたのであり、その「于山島」こそ、現在の竹島であると主張しています。

  2-2 しかし、『三国史記』には、于山国であった鬱陵島が512年に新羅に帰属したとの記述はありますが、「于山島」に関する記述はありません。また、朝鮮の他の古文献中にある「于山島」の記述には、その島には多数の人々が住み、大きな竹を産する等、竹島の実状に見合わないものがあり、むしろ、鬱陵島を想起させるものとなっています。

  2-3 また、韓国側は、『東国文献備考』、『増補文献備考』、『萬機要覧』に引用された『輿地志』(1656年)を根拠に、「于山島は日本のいう松島(現在の竹島)である」と主張しています。これに対し、『輿地志』の本来の記述は、于山島と鬱陵島は同一の島としており、『東国文献備考』等の記述は『輿地志』から直接、正しく引用されたものではないと批判する研究もあります。その研究は、『東国文献備考』等の記述は安龍福の信憑性の低い供述(5.参照)を無批判に取り入れた別の文献(『彊界考』(『彊界誌』)、1756年)を底本にしていると指摘しています。

  2-4 なお、『新増東国輿地勝覧』に添付された地図には、鬱陵島と「于山島」が別個の2つの島として記述されています。もし、韓国側が主張するように「于山島」が竹島を示すのであれば、この島は、鬱陵島の東方に、鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずです。しかし、この地図における「于山島」は、鬱陵島とほぼ同じ大きさで描かれ、さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位置している等、全く実在しない島であることがわかります。





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外務省 表紙





■ 竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土です。

■ 韓国側からは、我が国が竹島を実効的に支配し、領有権を確立する以前に、韓国が同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていません。



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◎ 日本は古くから竹島の存在を認識



1 日本は古くから竹島の存在を認識していました。

  現在の竹島は、我が国ではかつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。竹島や鬱陵島の名称については、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の地図や文献からも確認できます。例えば、経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年初版)のほか、鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数存在します。



外務省パンフレットへの批判1 2008/ 4/12 13:07 [ No.16407 / 16480 ]

投稿者 : ban_wol_seong

  半月城です。
  外務省は、これまで北方領土問題に関するパンフレットは熱心に発行しても、竹島=独島問題に関するパンフレットはまったく発行しませんでした。ところが今年2月、北東アジア課が「竹島問題を理解するための10のポイント」と題してパンフレットを初めて発行したので注目されます。
  そのパンフレットで一番の注目は、竹島=独島を版図外とした明治政府の太政官指令をどう記述するのかという点でした。しかし、その記述はなく、肩すかしに終りました。

  かつて、外務省は韓国の通信社「聯合ニュース」から <日本政府は「獨島は日本と関係がない」と結論付けた『太政官指令文』の内容をどのように評価されますか>との質問を受けていました。
  これに対して外務省は「太政官指令文の存在を知っている。この問題に対しては現在調査中であり、現時点で答えることはできない」とか、「まだ調査中」との回答のまま現在に至りました(注1)。
  それから2年も経つのに、外務省が今回のパンフレットでも太政官指令にまったくふれなかったのは、外務省にとって都合の悪い資料は公にしない方針なのか、それともその事実を内外にどう公表すべきかで結論がでなかったのか、ともかく煮え切らない態度です。
  この太政官指令は同省の主張する「竹島は日本の固有領土」というキャッチフレーズに反するだけに、同省にとってはアキレス腱的な存在になっているようです。

  その点、島根県は潔く太政官指令を認める公式見解を出しました。それを『フォトしまね』161号「竹島特集」に見ることができます。同書は、<太政官は、同島(欝陵島)と外一島を「本邦関係無之」とし、日本領でないとの認識を示した。外一島とは、現在の竹島とみられる>と記しました。
  すなわち、島根県は太政官が竹島=独島を版図外にしたと解釈しました。いずれ外務省も島根県の見解に賛成するのでしょうか。

  外務省は、このように最も肝心なことを隠したままパンフレットを発行したのですが、一事が万事、外務省にとって都合の悪い資料は公表しない姿勢で一貫しているようです。その具体例はおいおい書くことにして、このシリーズではパンフレットを項目順に見ることにします。

1.「日本は古くから竹島の存在を認識していました」
  パンフレットは日本が竹島=独島を熟知していた例として長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(赤水図)の1846年版を載せました。赤水図は7回改訂されたのですが、1846年版は6回目の改訂であり、弘化版とよばれます。
  パンフレットは、本文で赤水図の初版を1779年と紹介しながら、資料価値の高い初版である安永版の地図を載せず、かわりに弘化版をカラーで載せたのですが、これはどうもふに落ちません。

  よく知られているように、安永版は諸国の色分けに際し、竹島・松島の色を隠岐国とは異なり、朝鮮と同様に無色にしました。もし、この安永版を載せたら、見る人に竹島・松島は日本領外であるとの印象を与えかねないので、わざわざ竹島・松島が隠岐国と同じ色に彩色された弘化版を選んだのでしょうか。
  さらに気になるのは、なぜ外務省は赤水図を持ちだしたのでしょうか。領有権論争において重要なのは官撰書や官撰図であり、赤水図などの私撰図は単なる参考でしかありません。
  そうした観点からすると、官撰書の『隠州視聴合紀』は、日本が竹島=独島の存在を知っていた好例ですが、これにパンフレットは一言もふれていません。これらの問題については第3回「領有権」のところで書く予定です。

(注1)保坂祐二「<竹島問題研究会>「最終報告書」の問題点」『独島=竹島論争』(韓国語)ポゴサ刊、2008、P244

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



1) 日本の竹島認識 2008/ 4/12 19:14 [ No.16415 / 16480 ]

投稿者 : take_8591

1 日本は古くから竹島の存在を認識していました。

  半月城さん[ No.16407 ]は、「領有権論争において重要なのは官撰書や官撰図であり、赤水図などの私撰図は単なる参考でしかありません。」と批判します。
  すると、同文中にある「資料価値の高い初版である安永版の地図を載せず」との批判が理解できません。「単なる参考」に過ぎないものであれば、その価値に優劣をつけるのは矛盾しています。
  又、堀和生氏は「官撰地図」であるとし、舩杉力修氏は「準官撰地図」としています。どうして、半月城さんは私撰図とされるのでしょうか。その理由が明らかにされていません。
  そして、外務省が「準官撰地図」と捉えているとした場合、敢えて1846年版を掲載したのはそれが天保の渡海禁止令以降に出されたものであるからと考えます。



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