2010年2月25日木曜日

郷土の英雄 会津屋八右衛門

re4)会津屋八右衛門 2008/ 4/25 9:07 [ No.16499 / 16501 ]

投稿者 : take_8591


  八右衛門は郷土の英雄の様です。*1)

  八右衛門は、窮迫した浜田藩の財政に寄与するため、浜田藩幹部と密議し「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り(大坂町奉行判決)」、朝鮮・中国・台湾・安南・ルソン等から、珍しい品々を浜田に荷場げしました。これにより浜田藩財政の確立に大いに役立ちました。

  幕府(大阪町奉行所)が、「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り」と認めているのですから、竹島一件後もリャンコ島への渡海は禁止されていなかったことが明らかです。


  この事件を、崔書勉氏は次のように解説しています。*2)
   ------------------------
--日本が独島を固有の領土と主張する根拠が、でたらめということか。
  「日本政府の固有領土論のバイブルに該当する本は、1966年に川上健三氏が編纂した『竹島の歴史地理学的研究』だ。 外務省の協調を得て、ぼう大な文献を調べて集大成した本だ。 そこには、朝鮮時代の空島政策で人がいなくなった鬱陵島(ウルルンド)と無人島の独島に、日本人が行き来しながら漁業をしたという古文献記録がたくさん提示されている。 それは事実だ。 しかしもっと重要なのは、日本政府が自ら何度か渡航禁止令を出し、領有権を否定したということだ。 1837年に会津屋八右衛門という人がこれを破り、鬱陵島まで行った後、処刑された記録もある。従って、いくら古文書があっても、それは潜商、いまの言葉では密貿易にすぎず、領有権とは関係のない記録ということだ」
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  「鬱陵島まで行った後処刑された記録」→「鬱陵島渡海は禁止されていた」→「だから独島は日本領ではない」・・・おかしいですね。
  韓国人の主張はいつもこの様です。鬱陵島の話をしていて突然結論に至り、そこでは始から独島の話をしていたように装い、「独島は韓国領!」となってしまうのです。


*1) http://www8.ocn.ne.jp/~hamadajc/paeg/haci-02.html
*2) http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=62750&servcode=200§code=200



re4)天保の渡海禁止令 2008/ 5/ 1 7:01 [ No.16518 / 16520 ]

投稿者 : take_8591


  1812年、「松竹二島ノ間ニ出デ*1)」北海道に行き、択捉島の漁場視察のため国後島近海に居た高田屋嘉兵衛の商船がロシア船に拉致されました。
  1836年に会津屋八右衛門事件が起こり、「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り」と松島渡海が禁止されていないことが確認されます。1837年に、竹島渡海禁止令が再布告されます。

  -----半月城さん-----[ No.15609 ]-----------------------
 1.今般、松平周防守の元の領地である石州の浜田松原浦にいた住所不定の八右衛門が竹島(欝陵島)へ渡海した一件、吟味のうえ、右の八右衛門その他はそれぞれ厳罰に処された。
   右の島は、昔は伯耆・米子の者たちが渡海して漁労などをしたが、元禄期に朝鮮の国へお渡しになった時から渡海停止が仰せつけられた場所である。すべて異国へ渡海することは重いご禁制である。今後、右の島のことも同様に心得て渡海してはならない。
   もちろん、国々の廻船などは海上で異国船に出合わないように乗り筋などを心がける旨を先年も触れたとおりであるが、いよいよ守り、以後はなるべく遠い沖へ出ないように乗り回すことを申しつける。
    ・・・・・     (天保8年)2月
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  この触書は次の2点を告知しています。
  1 竹島は朝鮮領であるから、今後は竹島渡海に鎖国令の適用がある。
  2 先年の触書を、いよいよ守るべきこと。

  この2項の「先年の触書」ですが、高田屋嘉兵衛拉致事件の頃でしょうか、それとも、1825年の異国船打払令の頃に出されたのでしょうか。何れにせよ、竹島領有権問題とは関係なく出された触書の再確認の意味を持ちます。
  ところが、内藤正中氏は、「竹島渡海はもちろん、『遠い沖合い至らざる様』と遠い沖合いでの航海についても注意を喚起して、浦方村町ともに漏れなく周知徹底を図るように厳命したのである。元禄期につづく2回目の竹島渡海禁止令であった。竹島はいけないが松島は許されると解釈できるようなものではなかったはずである。*2)」と述べます。
  この様に書くと、元禄期に竹島を朝鮮に渡し、天保期に松島を朝鮮に渡したと言うことになります。事実、内藤氏はこの認識で論を展開しています。
  しかし、上記触書をどの様に読んでも、2項が領土問題を告知しているとは読めません。


 (*1) 1827(文政10)年、中川顕允『石見外記』 高田屋嘉兵衛の商船が「松竹二島ノ間ニ出デ」と記述
 (*2) 史的検証竹島 2007-04-26 岩波書店発行



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