2010年2月25日木曜日

半月 韓国は古くから独島を認識していた

外務省パンフレットへの批判2  (1) 2008/ 4/12 13:46 [ No.16409 / 16480 ]

投稿者 : ban_wol_seong


2.「韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません」

  パンフレットは、この表題につづけて韓国の主張をこう記しました。
       --------------------
  例えば、韓国側は、朝鮮の古文献『三国史記』(1145年)、『世宗実録地理誌』(1454年)や『新増東国輿地勝覧』(1531年)、『東国文献備考』(1770年)、『萬機要覧』(1908年)などの記述をもとに、「鬱陵島」と「于山島」という二つの島を古くから認知していたのであり、その「于山島」こそ、現在の竹島であると主張しています。
       --------------------

  外務省のいう「韓国側」とは何を指すのか不明ですが、少なくとも韓国政府が日本政府に宛てた公式の反論に『三国史記』は登場しません(注1)。外務省は幻の主張に振りまわされる一方で、重要な『世宗実録』地理誌への反論はないようです。
  同書に「于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明であれば望見することができる」とありますが、この記事こそ「韓国が古くから竹島を認識していたという根拠」として韓国政府が強く主張したのでした。
  かつて、外務省の川上健三氏はその主張に反論するため、欝陵島から竹島=独島は見えないと主張したくらいでした。その主張は、欝陵島で少し高いところへ行けば充分見えると反論され、川上氏の努力は徒労に終りました。それほど重要な文献である『世宗実録』地理誌にパンフレットは一言もないようです。

  つぎに、パンフレットはこう記しました。
       --------------------
  また、韓国側は、『東国文献備考』、『増補文献備考』、『萬機要覧』に引用された『輿地志』(1656年)を根拠に、「于山島は日本のいう松島(現在の竹島)である」と主張しています。これに対し、『輿地志』の本来の記述は、于山島と鬱陵島は同一の島としており、『東国文献備考』等の記述は『輿地志』から直接、正しく引用されたものではないと批判する研究もあります。その研究は、『東国文献備考』等の記述は安龍福の信憑性の低い供述(5.参照)を無批判に取り入れた別の文献(『彊界考』(『彊界誌』)、1756年)を底本にしていると指摘しています。
       --------------------

  この文に外務省の調査不足が露呈しているようです。というのも、『輿地志』の本来の記述は、決して「于山島と欝陵島は同一の島」としているのではなく、別々の島であると記述しているからです。ここにいう『輿地志』は柳馨遠『東国輿地志』とされますが、同書の口語訳は下記の通りです(注2)。
       --------------------
于山島、欝陵島
  一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある。三峰が高くけわしく空にそびえている。南の峯はすこし低い。天候が清明なら峯のてっぺんの樹木やふもとの砂浜、渚を歴々と見ることができる。風にのれば、二日で到着できる。一説によると于山、欝陵島は本来一島という。その地の大きさは百里である。
       --------------------

  この文は官撰書である『東国輿地勝覧』と完全に同じです。といっても剽窃ではありません。元来『輿地志』は、その「凡例」に断り書きがあるように、目的は『東国輿地勝覧』の「増修」にありました。
(つづく)



外務省パンフレットへの批判2、(2) 2008/ 4/12 13:47 [ No.16410 / 16480 ]

投稿者 : ban_wol_seong


  当時、名著の『東国輿地勝覧』は出版後 200年近く経過し、その間に変動が多々あったので、その増補を目的に『輿地志』が書かれたのでした。したがって、于山島のように変動がない記述はそのままにされました。
  つまり『東国輿地勝覧』も『輿地志』も于山島と欝陵島を別々の島とし、一島説を単なる一説として書いたのでした。したがって、外務省の解釈は明らかに誤りです。
  外務省がそのような初歩的な誤りを犯したのは、パンフレットが述べる、ある「研究」をウノミにしたからでしょうか。その研究とは下條正男氏の研究を指すようです。下條氏はこう記しました。
       --------------------
  オリジナルの『輿地志』では、「一説に于山鬱陵本一島」と于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)としているが、松島(現在の竹島)にはまったく言及していなかった、ということである(注3)。
       --------------------

  下條正男氏のように、資料の一部分だけを意図的に取りあげれば、資料の著者の見解とは正反対の解釈すら可能です。『輿地志』は本説で于山島と欝陵島を別々の島にし、一説で両島は本来一島としたのですが、下條氏は一説の記述のみをとりあげ、『輿地志』の見解とは正反対の見解を、さも『輿地志』の見解であるかのように記しました。
  これは下條氏のいつもながらの我田引水的な手法なので驚くにはあたらないのですが、外務省はその誤った恣意的な解釈をそのまま信じ、原典を確認するという基本的な作業を怠ったたようです。
  その埋め合わせなのか、外務省は下條氏の見解を同省の公式見解とせず、そうした「研究もある」と周到に逃げ道を用意してパンフレットを製作したようです。姑息なやり方ではないでしょうか。

  パンフレットの説明では『輿地志』と『彊界考』などの関係がわかりにくいのですが、『輿地志』は申景濬により『疆界考』および官撰書である『東国文献備考』の分註に次のように引用されました。

『疆界考』(1756)
  按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 欝陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり

『東国文献備考』「輿地考」(1770)
  輿地志がいうには 欝陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり

  一般に、古文書は日本のみならず韓国や中国でも句読点が一切ありません。したがって、この場合でも分註のどこまでが引用で、どこからが申景濬の見解なのかはっきりしません。
  『輿地志』の原文を分析すると、『疆界考』の場合は下條氏がいうように「一説に于山 欝陵は 本一島」が『輿地志』の引用文であり、それ以下は申景濬の見解であることがわかります。申景濬は『輿地志』や『東国輿地勝覧』に参考として書かれた一説(一島二名説)を完全に否定するため、ことさら『疆界考』でその一説を特記したとみられます。その一方、当時は本説である二島二名説は自明であったためか、分註で特にふれなかったと見られます。

  つぎに『東国文献備考』の場合は、「欝陵 于山は皆 于山国の地」が引用文であり、それ以下の「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」は申景濬の見解であることが『輿地志』からわかります。
  一時、私は『東国文献備考』においての引用文献名を『疆界考』とすべきなのに申景濬は誤って『輿地志』にしたのではないかと考えたこともありました。しかし、やはり上記のように解釈するのが妥当ではないかと思います。もちろん、くだんの下條正男氏がいうような史書の「改竄」などはなかったというべきです。
(つづく)



外務省パンフレットへの批判2、(3) 2008/ 4/12 14:03 [ No.16412 / 16480 ]

投稿者 : ban_wol_seong


  おわりにパンフレットは『新増東国輿地勝覧』の付属絵図を批判しましたが、そもそも絵図は地図と違って、不正確なのが特徴です。しかも『東国輿地勝覧』のように16世紀の絵図とあっては、離島などはその位置や大きさなど、ほとんどデタラメに近くて当然です。
  外務省は、于山島は「鬱陵島よりはるかに小さな島として描かれるはずです」と記しましたが、そうした批判は絵図でなく地図に向けられるべきです。
  その点、外務省が竹島=独島を「的確に記載している地図」としている長久保赤水の「地図」には外務省の批判がストレートに当てはまります。同図は竹島と松島を同じくらいの大きさで描いているので、外務省の「大きさ」批判にまったく耐えられません。さらに、同図における竹島・松島の位置は、もちろん実際とは違っています。

  19世紀の赤水の地図ですらこのような有様です。ましてや16世紀の絵図を取りあげて、何か議論すること自体、ほとんど無意味です。絵図は、単に当時の人々の空間認識を絵で表現したにすぎません。
  さきの『新増東国輿地勝覧』の付属絵図でいえば、これは単に東海に于山・欝陵の二島が存在するという空間認識を表現したと理解すべきであり、それ以上の議論は本末転倒です。

(注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両政府の見解」『レファレンス』2002.6月号
(注2)『東国輿地志』「于山島 欝陵島」の原文
 www.kr-jp.net/rok/jiri/yojiji-usan.pdf
(注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004,P100

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



.

ブログ アーカイブ

フォロワー