2010年2月25日木曜日

◎ 元禄期に竹島渡航を禁止していない


4 日本は、17世紀末、鬱陵島への渡航を禁止しましたが、竹島への渡航は禁止しませんでした。

  4-1 幕府より鬱陵島への渡航を公認された米子の大谷・村川両家は、約70年にわたり、他から妨げられることなく独占的に事業を行っていました。

  4-2 1692年、村川家が鬱陵島におもむくと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。また、翌年には、今度は大谷家が同じく多数の朝鮮人と遭遇したことから、安龍福、朴於屯(パク・オドゥン)の2名を日本に連れ帰ることとしました。なお、この頃の朝鮮王朝は、同国民の鬱陵島への渡航を禁じていました。

  4-3 状況を承知した幕府の命を受けた対馬藩(江戸時代、対朝鮮外交・貿易の窓口であった。)は、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡航禁制を要求する交渉を開始しました。しかし、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得るに至りませんでした。

  4-4 対馬藩より交渉決裂の報告を受けた幕府は、1696年1月、朝鮮との友好関係を尊重して、日本人の鬱陵島への渡航を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されています。

  4-5 その一方で、竹島への渡航は禁止されませんでした。このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかです。



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