2009年2月15日日曜日

世界の領土・境界紛争と国際裁判

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世界の領土・境界紛争と国際裁判

外交交渉と司法的解決の採用を目指して

金子利喜男

 



第20章 先占と実効的支配

―竹島と尖閣諸島との関連で―



 係争諸島と先占 わが国をめぐる領土問題については、先占は、とくに竹島と尖閣諸島の問題に関係する。
北方領土とことなり、日本は、中国とも、韓国とも、これらの係争諸島にかんする条約をむすんでこなかったからであ
る。

1.尖閣諸島 わが国勢府の主張によれば、1885年からの調査で、この諸島に清国の支配がおよんでいないこ
とを確認し、1895年に現地に標杭を建設して日本領としたとのことであるが、中国側にあれば、これは昔から中国領
土で、はやくも明代(1366―1644年)には、中国の海上防衛区域にふくまれて、中国の台湾に付属していたという
(98―99頁)。

2.竹島問題 わが国の主張によれば、江戸幕府は、1696年に鬱陵島を放棄したが、竹島をば日本領として取
りあつかい、1905年に竹島を島根県隠岐島司の所管にいれ、第2次大戦の終了するまで、実効的な支配を継続して
きたとのことであるが、韓国側によれば、同国は、新羅時代(4世紀半ば―935年)から、竹島を鬱陵島に付属する島
として支配してきており、それは自国領であるという。

2.千島列島の場合は、その係争諸島にかんする国際的な文書がいくつかある。それゆえ、千島の先占は、歴史的
には興味あるにしても、国際法上それは決定的な意味をもたず、むしろ条約の解釈が重用である。



 先占の要件 つぎが、先占の要件とみられており、これについて、根本的な反対説はない。

第1に、それは国家によっておこなわれなければならないということ。その意志を表示しなければならない。

第2に、先占される土地は、無主の地であること。ある土地に人がすんでいても、その土地が、どの国家にも属して
いないときは、無主の土地とみられてきたが、しかし、そのような土地は、民族自決権と先住権の要求の高揚げとと
もに、古典的な理論に服しなくなった。

第3に、先占が実効的であることが必要である。先占を尊重させる権力が必要である。無人島の場合、ときどきみま
わって国家機関が秩序を維持できれば、それで十分である。

 国際法の父といわれるグロチウス(1583―1645年)藻、「意志行為だけでは不十分であって、先占が明らかに認め
られ得る外部的行為がなければならない」(1)と述べている(田だし、これは海の先占について)。19世紀の後半に
は、先占が実効的でならなければならないことは確立したとみられている。

 20世紀中の判例 先占に関係するのは、とりわけ、つぎのような判例である。(年号は、判決のあった年)

①1904年 ギアナ境界事件 あたらしい貿易経路を発見しただけでは、その私人の本国が、その土地にたいする主
権を取得したことにはならない、と判示された。

②1931年 クリッパートン島事件 島も先占を主張するメキシコは、その権利を実効的に行使したことを証明しなけれ
ばならない、との要件が強調された。

③1933年 グリーンランドの法的事件 他国が、優越的な主張を立証できないときには、時刻の主権の現実的行使
はわずかなものでよいとし、先占の要件を明確にした。

④1951年 マンキエ・エクレオ諸島事件 英国は「古来の権原」を、フランスは「固有の権原」を主張。ICJは、実効的
占有を重視し、係争諸島は英国領であるとした。

⑤1928年 パルマス島事件 ある国家が、当初は実効的に支配していたとしても、いつのまにかその土地を平穏か
つ継続的に支配しているなら、後者が優越する。





38 クリッパートン島事件



(仲裁裁判、当事国はメキシコとフランス、仲裁付託契約は1909年3月2日、判決は1931年1月28日、その間21年
10カ月、領土紛争、159~165頁)



 本件は、とくに尖閣列島の問題で参考になりうる。



事実 1858年秋に、フランス政府代理人の海軍大尉は、クリッパートン島沖を航行中、海軍大臣の命令にしたがっ
て、同島の主権は、この日からナポレオン3世とその後継者に属すると布告した。航行中、詳細な地図がつくられ、
小艇の乗組員が上陸したが、船は主権の表示をのこさず離島した。フランスは、ハワイ政府にたいし、同海軍大尉の
任務の終了を通告した。ホノルルの新聞は、クリッパートンにたいするフランス主権はすでに公布されている。という
宣言文が公表された。そのご1887年まで、明白な主権行為は、フランス側からも、他の諸国側からもおこなわれて
いない。1897年、フランス太平洋海軍艦隊長は、グアノを採掘している3人をクリッパー島で発見したが、かれらのア
メリカ国旗の掲揚について、フランスは抗議した。しかし、同島を自国領とかんがえていたというメキシコは、砲艦を派
遣して、メキシコ国旗をかかげた。結局、両国は1909年その帰属問題を裁判で解決することに合意した。判決は、
1931年にでた。



 判決 メキシコによれば、この島は、スペイン海軍によって発見されていたのであって、当時有効であった法によ
りスペインに属し、1836年からは、同国の承継国として、メキシコに属していたという。しかし、発見がスペイン人によ
りおこなわれたとみとめるにせよ、メキシコの主張が根拠づけられるためには、スペインが国家としての立場で、同島
を自国の領土に編入する権利をもつだけでなく、その権利を実効的に行使したことを証明する必要があろう。しかし、
それはまったくしめされなかった。ある領土が完全に無人の地であるという事実によって、そこに先占国家があらわ
れた最初のときから同国が絶対的に使用できるときは、その時点から占有の実行は完成されたとみられなければな
らない。これらの前提から、クリッパートン島は、1858年11月17日、フランスにより合法的に取得されたことになる。
同国が、あとになってその権利を遺棄(derelictio)によりうしなったと認定する理由はない。なぜなら、同島を放棄す
る意志をもったことはないからである。



 解説 1)わが国の領土問題の関連で注目されるのは、フランスが同島を放棄する意志をもったことはないから、
あとになってその権利を遺棄する意志があったとすれば、それは放棄につながるということを前提にしている。

2)本件は、ある面で、尖閣諸島問題とにている。中国は、明朝が倭寇の進入に抵抗するため、1556年に胡宗憲を
総督に任じて、沿海各省で軍事的責任をおわせ、尖閣諸島が中国の防衛範囲にはいっていたと主張するのにたい
し、日本側は、1885年の調査で、同諸島が清国に所属する証拠がないことを確認して日本領に編入したとし、中華
民国政府も、中華人民共和国政府も、1970年にはじめて同書島の領有権を問題にしたと主張した。

3)実効的先占 本件は、とりわけ、パルマス島事件〔266―269頁〕と東部グリーンランドの法的地位事件〔163―
167頁〕とならんで、先占は実効的でなければならないとする判例である。



39マンキエ・エクレオ諸島事件



(国際司法裁判所、当事国は英国とフランス、付託は1951年12月29日判決は1953年11月17日、その間1年11カ月
余、高野判例、1965年、99―110頁)

古来の権原;固有の権原;占有に直説する証拠;刑事裁判権の行使〔マンキエとエクレオは、英領チャンネル諸島の
ひとつであるジャシー島とフランス本土とのあいだにある〕

 事実 英国とフランスは、付託合意にもとづいて、訴えを提起し、それぞれ係争諸島にたいする自国の権原を主
張した。英国は、古来の権原(ancient title)の由来をとき、マンキエとエクレオ諸島の自国領有を主張する。つまり、
1066年の征服1204年の占領、そのごの諸条約、1471年の休戦協定を引用する。他方フランス側も、固有の権原
(titre originel)の由来をとく。すなわち、ノルマンディ公は、フランス王の家臣であったこと、1202年のフランス裁判所
の判決により、英国王ジョンは、フランス王からの封地がすべて没収されたこと等々。

 判決 海峡諸島をふくむノルマンディ画、1066年から1204年まで、ノルマンディ公の資格における英国王により
保管されたという事実にかんがみて、英国の見解に有利な推定の根拠がある。たといフランス王が、海峡諸島につ
いて、固有の封建的権原を有していたにせよ、それは1204年以降の諸事件の結果として、失効してしまったにちが
いない。1202年のフランスの判決については、海峡諸島に着き、判決が執行されることがなかった。フランス王が、
海峡諸島の占有に失敗したからである。しかし、決定的な重要性をもつのは、中世紀の事件からひきだせるような推
定でなく、両島の占有に直接的に関係する証拠である。英国が採用した事実のうち、とくに司法権、地方行政権と立
法権の行使にかんするものに証拠能力をみとめる。ジャシー王立裁判所は、ほぼ100年間、エクレオで刑事裁判権を
行使してきた。



 解説 モーパサンの短編「ジュールおじさん」のなかのジャシー行きがおもいだされる、この作品は、1883年の
夏、新聞に発表されたものであるが、「ジャシー行きは、貧乏な人びとにとっては、旅行の理想である。…外国へいく
ことになる。この小島は英国の領土だ」と書いている。ところで、本件は国際司法裁判所の領土問題にかんする最初
の判決であるだけでなく、「古来の権原」とか「固有の権原」のことばを使用していることでも注目される。日ロ中韓
は、多かれ少なかれ、本件中の英仏とにた態度をとって、争いあっているのである。この判例の重要な点は、実効的
占有を重視したことである。しかし、それにしても、事実上の支配が、その地域が当然その支配国の領土であること
を意味するものでないことにも注意しなければならない。たとえば、占領は、占領地域が当然その占領国の領土にな
ることを意味しない。また、北方4島については、ロシアよりは、むしろ日本に固有の権原があろう。しかしまた領土
は、いろいろな自由で変更するので、過去に固有の権原をもっていたとしても、それが現在も当然その国の領土であ
るという証明にもならない。問題は、複合的で、総合的な判断が必要である。本件が、日ロ間の領土問題で、余り援
用価値がないのは、そもそも北方領土問題においては、先占の実効的支配でなくて、現行条約の解釈が問題だか
らである。地方、この事件は、竹島問題を考察するうえでは、かなり参考になる。太壽堂鼎・京都大学教授は、本件
を引用し、「決め手となるのは、信憑性が疑われる歴史的事実に基づく根拠ではなくて、実効的占有の有無であろ
う」と述べている。(そして、わが国が竹島問題では優位であるとみる。ケース、112頁)



(1)一又正雄『戦争と平和の法』、第1巻、グロチウス、1996年の復刻版、酒井書店、307頁











第21章 島にかんする判例



さて、島の領有権問題について、その全体像を把握するため、島にかんする20世紀中の判例を一瞥しよう。千島列
島、尖閣諸島、竹島問題を視野にいれ、つぎの8つの事例はすでに説明した。その要点を復習すれば:

①1903年 アラスカ国境事件 本件では、どこに「ポートランド海峡」が位置するかで、島の帰属先が左右された。
(右上の図を参照)

②1914年 チモール島事件 交渉当時の意図が重視され、条約発効後のべつの主張は放棄した土地の要求のむし
かえしであると非難された。

③1928年 パルマス島事件 本件では、領有権請求のためには、権原の有効な取得を証明するだけでは不十分で
あり、国家権力の平穏かつ継続的表示が必要である、と判示された。

④1931年 クリッパートン島事件 ある国家が、ある土地を最初から絶対的に使用できる場合に、放棄の意志がなけ
れば、占有は実行されたみる。

⑤1933年 カステロリゾ島とアナトリア海岸領海境界事件この紛争について、仲裁契約がむすばれたが、提訴後の
交渉成功で、訴訟は中止された。

⑥1933年 グリーンランドの法的地位事件 グリーンランドにたいしては、1931年までデンマーク以外から主権の主
張がなく、ノルウェーは、それを争ってならない、とされた。

⑦1951年 マンキエ・エクレオ諸島事件 裁判所は、重用なのは、中世の諸事件からの推定でないこと、国家の実
効的支配が重要であるむね判示した。

⑧1978年 エーゲ海事件 裁判所の判例は、外交交渉と司法的解決が併用されたさまざまの実例を提供している。
(1)以上の判例は、すでに紹介したので、つぎの4つの判例を検討するが、わが国のかかえる領土問題を解明・解
決のための手がかりがあるだろうか?まずは各事件の要点を紹介する。

⑨1909年 グリスバダルナ事件 現実に存在し、かつ長期にわたった事態は、可能な限り変更しない、というのが確
立した国際法の規則であると、仲裁裁判所は判示した。

⑩1937年 ビーグル海峡事件 係争海峡のコースは、交渉当事国には議論すら必要のないほど明白であったにち
がいない。したがって、裁判所は、そのことを考慮する。

⑪1992年 領土・島・海洋境界事件 3国にかこまれたフォンセカ湾には、利益共同体が存在し、湾の閉鎖線には3
国とも存在すると判示された。

これらの判例註には、前述の先占と放棄の法理を補強するものがあっても、それを否定するものはない。ただ、きわ
だっているのは、「領土・島・海洋境界事件」である。これはフォンカセ湾に岸をもつ3国が湾の閉鎖線にも存在すると
いう奇想天外な、しかし衡平の原則には、かなっているような判決である。本件は、おなじく3国の複雑な利害関係
が調整された1977年の大陸棚国境画定事件とあわせて考えると興味深い。この2つの事件では、それぞれ3国の
利害関係が絶妙に調整されたようにみえる。なお、2001年3月現在、世界市民法廷に付託されている事件は、北方
4島、西■諸島、南沙諸島、フォークランド島および竹島にかんするものである。





40グリスバダルナ事件



(仲裁裁判、当事国はノルウェーとスウェーデン、付託契約は1908年3月14日、判決は1909年10月23日、その間1
年7カ月余、領土紛争、49―61頁)



















本件では、講和という事実のみによって、問題の海の領域が分割されたとの判示がとくに重要である。フィヨルド;砂
州;浅瀬;漁業;長期の事態

 事実 (1)合同委員会 本件は、スウェーデン・ノルウェー国境の南端の峡湾イデフィヨルドの湾口から公海まで
の境界紛争で、問題の境界線は、1661年の両国間の国境画定条約によって定められていたが、その数カ所が不明
確なため、1897年に設置された両国の合同委員会が、国境画定の提案をまとめた。提案によると、全委員の意見
は、イデフィヨルド最奥部から第17点までは一致、しかし、第18点以遠の公海までの境界線については、合意をみ
ず、両国の委員は、どちら側も、グリスバダルナの砂州と付近の浅瀬を自国の領海にふくめていた。この付近の海域
は、エビ漁業の好漁場であった。

(2)仲裁付託契約 結局、1904年、双方は問題を仲裁裁判に付託することに合意し、1908年3月14日、とりわけ、
つぎの次項をふくむ仲裁付託契約をむすんだ。(ノルウェーは、1814年いらい、スウェーデンと同君連合であったが、
1905年に分離した。)

第1条3名からなる仲裁裁判所は、両国から各1名、のこる1名の裁判長はオランダ女王が任命する。

第2条 仲裁裁判所は、第18点から公海までの境界を決定する。

第3条 仲裁裁判所は、1661年の国境画定条約により、境界線が画定されているとみなされるべきかについて、決
定しなければならない。





 判決 仲裁裁判所は、1909年10月23日、とりわけ、つぎのむね判示した。

1)第19点について、本裁判所の審理段階での両当事者の主張は一致した。

2)両当事国は、その両側にある島や岩礁(いつも海面下に没していないもの)をむすぶ中間線によって分割するとい
う規則を採用している。当事国の意見によれば、これが、1661年条約においてA点(イデフィヨルドのほぼ出口にあた
る。スウェーデン領コスター島ノルウェー領チスラー島をむすぶ線のほぼ中点)の内側で採用された規則であったとさ
れる。そのような規則の採用は、現在これを適用する場合、条約当時に存在した状態を考慮しなければならない。ハ
イエフルエル岩礁は、当時は海面上にあらわれていなかったので、ヘヤェクヌブが基準点として採用されるべきであ
る。このようにして、第20点も確定された。

3)のこる問題は、第20点以遠の公海にたっするまでの境界線。1658年の講和という事実のみによって、領域が自
動的に分割された。その自動的な分割線を確認するには、その当時有効であった法原則に依拠しなければならな
い。1658年の自動的分割線の決定―それは、こんにちにおける問題の境界線の画定とおなじ―は、海岸線の一般
的方向にたいし垂直線をひくことである。が、当事国は、重要な州をよこぎるように境界線がひかれることが不適当と
の意見であるから、第20点から、真西より南へ19度かたむく方向にひかれるべきである。

4)グリスバダルナをスウェーデンに帰属させる境界画定は、とくに、つぎの事実状態により支持される。グリスバダ
ルナの浅瀬におけるエビ漁業は、ノルウェー人よりもスウェーデン人によって、おこなわれてきた。現実に存在し、か
つ長期にわたって存在してきた事態は、可能なかぎり変更しない、というのが確立した国際法の規則である。

5)ショッテグルンデをノルウェーに帰属させることは、以下の重要な事実状態により十分に支持される。スウェーデン
人が長期間に、かつ広範囲に、より多数ショッテグルンデで漁業に従事してきたと推定されるが、ノルウェー人は同
地域で排斥されなかっただけでなく、グリスバダルナよりショッテグルンデにおいて、いっそう有効に、ほぼ継続的に
エビ漁業に従事してきたことが当事者により確信されている。



 解説 わが国の領土問題の関連でみると、本件で注目されるのは、とりわけ、つぎの点である。

1)問題付託後、それは早期に解決(1年7カ月)された。

2)ノルウェーは、1658年の講和という事実のみによって、問題の海の領域が自動的に両国のあいだで分割されたと
主張する。その主張は、スウェーデンによっても排斥されていないとして、裁判所は、その意見を支持し、この意見
は、当時の、また、現代の国際法の基本原則に一致すると判示した。

3)国境線画定のさい、現状が尊重されたこと。この判決での重要なポイントのひとつは、海の領域の境界画定のさ
い、現実に存在しかつ長期にわたって存続してきた事実状態は最大尊重することが、確立した国際法原則である、
との判示である。現実に存在し、かつ長期にわたり存続してきた事実状態や権益は、そのごのいろいろな判決でも
考慮され、等距離法式は機械的には適用されていない。北海大陸棚事件におけるジェサップ裁判官の個別意見(領
土紛争、60―61頁)、チュニジア・リビア事件(183―186頁)、グリーンランドとヤン・マイエン間海域境界事件(191―
194頁)などでは、同時に衡平の原則に注意を喚起している。衡平の原則というのは、境界についてわかりやすくい
えば、ある当事者が、ある部分で相手国より多く利益をえる場合、他の部分では相手国のほうの利益をより多く考慮
することである。北方領土の貝殻島では、わが国の国民が、同島について、特別の権益をうけてきた。それゆえ、本
判決のプリズムからみるなら、将来、歯舞群島が、日本領あるいはアイヌ自治区とされるかどうかわからないが、い
ずれにせよ、最低限度そのときの貝殻島の状況が尊重されるべきであるということになろう。

4)この仲裁判決は、隣接する2国間の境界画定にかんする興味深い先例である。判決によれば、境界線は、海岸
線の一般的方向にたいして、垂直線をひくことによって定められなければならず、その場合、境界線の両側の海岸線
の方向を考慮すべきであるとする。しかし、このような規則は、そのご歴史の流れにそい、修正されていく。一国が独
善的に行動してならない理由は、このような法の流動的な形成過程にもみいだされる。

4)本件で、両係争国は、エビの好漁場を自国の要求区域にふくめた。このように、日ロ中韓の各国は、まず国際法
の規則を考察する以前に、自国の欲望・要求をおしとおそうとの態度がさきだちすぎていないであろうか。この面で
は、世界の多くの国が、まずは自国の利益を考慮して、それを確保する根拠をさがしだそうとし、場合によっては理屈
をこねる。そのことじたい、多くの人間の不可避的な性向に関係しているであろうから、それほど非難できないと譲歩
しても、批判されるべきは、権利の侵害が問題になっているにもかかわらず、紛争国が、長年にわたり外交交渉で問
題を解決せず、また他の平和的解決方法も使用しないことである。





41 クレタ島とサモス島の灯台の事件



(仲裁裁判、常設国際司法裁判所、当事国はフランスとギリシア、付託契約は1936年8月28日、提訴は同年10月
28日、判決は1937年10月8日、提訴から判決まで11カ月余、横田、87―94,145―153頁。宮崎、194―195頁)









 事実 問題は、旧トルコ領土内の灯台の特許契約にかんする。この契約により、フランスの会社は、19世紀か
ら地中海の旧トルコ領にある灯台の建設や維持にかかわってきた。1913年4月1日に、同社とトルコ政府は、更新契
約をむすんだ。しかし、これは、バルカン戦争のまっさいちゅうで、クレタとサモスの両島をふくむトルコの島々が、ギリ
シアに占領されていたときであったので、ギリシアは、常設国際司法裁判所で、トルコとフランス会社間の契約の効
力を争った。しかし、1934年3月17日、同裁は、「ギリシア政府にたいして有効である」と判決した。〔くわしくは、横田
Ⅱ、87―94頁〕。そのご判決の適用について、両国間に争いがおこった。つまり、判決がクレタ島とサモス島の灯台
に適用されるかということである。ギリシア政府は、すでに契約更新まえに、両島がトルコから分離されていたから、
それらの島の灯台は契約外であるとみなして、ギリシアは、ふたたび事件を常設国際司法裁判所に付託した。



 判決 1)ギリシアの主張を棄却 ギリシアの主張によれば、クレタ島とサモス島は、広範な自治をもっていたか
ら、1913年に、トルコがすでにまえから主権をうしなっていたというものである。しかし、1923年のローザンヌ議定書
12の9条は、バルカン戦争後トルコから分離されたすべての領土に適用される。

2)クレタ島 同島は、その自治にもかかわらず、トルコ帝国の一部であった。1913年5月30日の講和条約は、「トル
コ皇帝は、連合国の諸元首にクレタ島を割譲し、かれらのために、同島において有した主権に属するすべての権利と
その他の権利を放棄することを宣言する」と述べている〔第4条〕そのときまで、トルコ皇帝が主権をもっていたことに
ついて、この正式な放棄よりも決定的な証拠を発見することは困難であろう。

3)サモス島 同講和条約で、トルコ皇帝が、多島海における同国のすべての島々にかんする決定を列国に委任する
ことを宣言した後、1914年2月13日に、列強の決定により、サモス島がギリシアに帰属した。



 解説 1)本件の判決では領土の一部が「分離された」(detached)という場合の要件が述べられている。この判
決で、分離ということばは、ひろい自治の場合は、本国政府との「すべての政治的結合が切断され」、本国政府が、
その自治領にかんして「すべての権能をうしなっている」こととされた。

2)わが国の領土問題の関連では、1913年の講和条約のクレタ島放棄条項にかんする判示が注目される。この判
決のプリズムをとおし、対応することばを機械的に代入すれば、つぎのようになる:

 1951年対日講和条約は、日本国は千島列島において有した主権に属するすべての権利とその他の権利を放棄す
るむね宣言すると述べている(第2条)。そのときまで、日本国主権をもっていたことについて、この正式な放棄よりも
決定的な証拠を発見することは困難であろう。

 講和条約は、ふつう戦後処理を最終的に解決するものであるから、それは自然な判断である。本判決も、放棄によ
る島の移転は、講和条約の締結時点で確定したことを前提としている。そのごの一方的判断や一方的な解釈の変
更で、境界が変更することを前提にしていない。占領は、領土の移転をともなうものでない。(戦後の日本占領を想起
されたい)







41  ビーグル海峡事件



(仲裁裁判、当事国はアルゼンチンとチリ、仲裁付託契約は1971年7月22日、判決は1977年2月18日〔前掲書では
4月〕、その間5月6カ月ほど、領土紛争、244―259頁)

 本件は、南米のビーグル海峡の島にかんして生じたものである。

 事実 ビーグル海峡の島にかんする1881年の条約の第3条によれば:

島にかんしては、スターテン島とそれに近接する小さな島々は、アルゼンチン領とする。ビーグル海峡の南方でホー
ン岬にいたるまである全諸島とフェゴ地帯の西方にある諸島は、チリ領とする。争点となったのは、ピクトン、ネヴァ、
レノックス〔上図〕のこの3島が、この「ビーグル海峡の南方」の島々に該当するかである。1971年の夏、英国、チリ、
アルゼンチンのあいだでむすばれた仲裁付託契約は、1902年の一般仲裁裁判条約、裁判の義務化にもとづいてむ
すばれた。仲裁裁判所は、1972年の夏、その所在地をジュネーヴにおき、1977年4月の判決で、係争3島はチリに
属するとし、つぎのむね判示した。



 判決 海峡は、ピクトン島のところで、二手にわかれている。「ビーグル海峡の南方」に係争諸島があるかは、ど
の流れがビーグル海峡かによる。その解決は、1881年条約にもとめられるべきである。他の部分については、くわし
い定義をあたえている交渉者たちが、なぜビーグル海峡については、国境線を定めなかったのかは、同海峡のコー
スは、議論すら必要のないほど明白であったからにちがいない〔参照、北大西洋沿岸漁業事件〕。北琉が海峡内の
さまざまな目的地にいく航海に一般に使用された。探検家ボヴェは、その報告書をグランデ島の南岩の湾で執筆し
たが、かれは同湾をビーグル海峡の終わりであると記述している。1885年のアルゼンチン総督の公式報告書のなか
には、チリのバナー・コーヴ港で夜をすごすと述べられているが、同港はピクトン島の北琉沿いにある。裁判所は、係
争3島が「ビーグル海峡の南方」に位置すると判定し、チリ領と判定する。



 解決 1)議論すら必要のないほどの明白さ わが国が放棄した「千島列島」が、国後と択捉をふくむということ
は、議論すら必要ないほど明白であるだろうか。たぶん、これは、地理的にも、また法的にもそうであろう。むしろ、問
題は、色丹と歯舞群島である。

2)とどのつまりは判決にもとづく ところで、この判決は、1978年1月24日、アルゼンチンにより拒否されたため、紛
争区域に険悪な状況が生じた。この地域の領有に執念をもやす理由のひとつは、この地域が南極大陸にたいする権
利に関係すると両国は、武力不行使協定をむすび、ローマ法王の仲介をうけいれ、ついに1984年に平和友好条約を
むすんだのであるが、ここで注目すべきことは、この平和条約も、ローマ法王の提案も、仲裁判決の効力を前提とし
たうえで、境界画定をはかったことである(3)

5)フォークランド領有問題 日グル海峡の東にあるフォークランドは、アルゼンチンと英国間の係争地であるが、この
紛争は2000年12月、世界市民法廷に国際中立提訴団が提訴した。





42領土・島・海洋境界の紛争にかんする事件



(国際司法裁判所、当事国はエルサルバドル、ホンジュラス、1986年5月24日に付託協定、判決は1992年9月11
日、その間6年3カ月余、国外、95巻1号、1996年、92―119頁)

 本件で裁判所は、苦肉の策か、奇想天外な、しかし衡平の原則には、おそらく、かなっているような判決をだしてい
る。



 事実 1821年、スペイン領グアイテマラ歯、中米共和国連邦として独立したが、1839年に連邦が分裂して、そこ
にエルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアなどが誕生した。そのご1854年に、米合衆国がホンジュラスにエル・テ
ィグレ島の購入を提案したさい、エルサルバドルはこれに抗議し、同時にメアングェリタ島を要求した。フォンセカ湾に
ついても、交渉がおこなわれ、1884年の条約で、エルサルバドルとホンジュラス間の国境画定がなされたが、ホンジ
ュラスは同条約を批准しなかった。他方、1900年には、ニカラグアとホンジュラス間の交渉で、フォンセカ湾内の両国
の境界が画定された。ところが、1916年には、エルサルバドルは、ニカラグアが、合衆国の海軍機との建設をみとめ
た条約は、この湾の共有権の侵害になると主張して、ニカラグアを中米司法裁判所に訴えた。翌1917年の判決は、
フォンセカ湾の水域は、1900年のホンジュラスとニカラグアの分界水域をのぞいて、当該事件の当事国エルサルバド
ルとニカラグアとのあいだでは「共有の状態」にあった、と判示した。ニカラグアは、判決直後に、この判決を拒否する
声明を発表した。エルサルバドルとホンジュラス間で、そのごも国境紛争は続き、1969年には、武力衝突が発生す
るまで悪化したが、結局、1980年に一般平和条約がむすばれ、この条約によって設置された合同国境委員会が、条
約で未確定の陸地の6カ所、それに島と海洋の法的地位を決定することにした。しかし、1985年までの作業は成功
しなかった。そこで、5年の経過後に成果のない場合の国際司法裁判所への付託を定める一般平和条約にもとづ
き、1986年の春に付託協定がむすばれ、5名の特別裁判部に解決をゆだね、同時に、国際司法裁判所の判決を執
行するための境界画定委員会が設置された。

 当事国と訴訟参加国の3者3様の申立

1.エルサルバドル 1)ザカテ・グランデ島とファラロネス諸島をのぞき、フォンセカ湾内のすべての島、とくにメアング
ェラ島とメアングェリタ島にたいし、主権を有する。2)フォンセカ湾外に主権を有するのは、太平洋に直接面している
国のみであり、ホンジュラスは、湾外の海域にたいし主権をもたない。

2.ホンジュラス 1)自国は、メアングェラ島とメアングェリタ島にたいし、主権を有する。2)湾内には、利益共同体
(the community of interests)が存在するが、それは共有(condominium)ではない。3)湾外には、ホンジュラス
も、沿岸の長さに比例して、領海、排他的経済水域、大陸棚を有する。

3.ニカラグア 1)湾内に利益共同体の概念はなく、同概念は、ニカラグアの固有の権利と両立しない。2)フォンセカ
湾には、共有制度は存在しない。

 判決 〔湾と島にかんする部分だけ。陸地の6カ所については割愛〕

1)紛争の対象となっている島は、エル・ティグレ島、メアングェラ島、メアングェリタ島である。

2)エル・ティグレ島について エルサルバドルは、同島が1833年以前は自国に属しており、そのごの同島にホンジ
ュラス当局が存在したのは、この島に避難していたエルサルバドル反政府勢力を逮捕することを条件にみとめたの
であって、それ以降のホンジュラスの同島の占有は、1833年にエルサルバドルが同意した限定的目的を有する許可
にもとづく事実上の占領以外のなにものでもないとする。

3)しかし、この点につきエルサルバドルは、十分な証拠を提出していない。1849年、英国が一時的に同島を占領し
たが、ホンジュラスに返還すると述べたこと、1900年にニカラグアとホンジュラスが国境を画定したさい、同島がホン
ジュラス領とされたことにたいし、エルサルバドルが抗議しなかったこと〔尖閣諸島問題と対比されたい。98―101
頁〕、1917年中米司法裁判所によっても、同島がホンジュラス領とされたこと、等々からかんがえて、それはホンジュ
ラス領である。

4)メアングェラ島とメアングェリタ島について エルサルバドルとホンジュラスは、両島が一体のものであるとし、分割
して取りあつかうことをもとめていない。1884年の条約は、それらをエルサルバドル領と定めたが、ホンジュラス側が
批准しなかった。しかし、そのごエルサルバドルのメアングェラ島における存在は、エルサルバドルが、メアングェラ
島にたいする主権をおこない、そのご実効的占有と支配をおこなってきたという事実は、エルサルバドルを同島にた
いする主権者とみなしうる。

5)海域の地位について 当事国と学説も、フォンセカ湾が歴史的湾〔内水の要件をみたしていなくとも、慣行で内水
とみとめられているもの〕であることに、意見が一致しており、湾内水域は、共同主権の特有の制度に服するもので
ある。その例外として、1917年判決のように、湾内沿岸3カイリ水域は、排他的管轄水域であるが、その3カイリ外側
に沿岸国は、大陸棚も、排他的経済水域も、公海も有しない。湾内水域が、共有の地位にあり、3国の共同主権に
服する内水であるために、閉鎖線には3国とも存在し、ホンジュラスが湾外の海洋にかんして締めだされることはな
い。湾内と湾外をわける基線は、地理的状況から、プンタ・アンパラとプンタ・コシグィナ間の線である。湾外について
は、まず閉鎖線の両端3カイリは、エルサルバドルとニカラグアの排他的管轄水域である。3共同主権者のすべて
が、閉鎖線の外側に領海、大陸棚、排他的経済水域の権原を有するのでなければならない。湾外で、共同主権の
状況をそのままにするか、あるいは3国の区域に分割すべきかは、湾内と同様、3国のきめるところによる。



 解説 1)湾の閉鎖線に、3国が存在するとの、一見し衡平な、だが抽象的、仮想的な概念の判決は、筆者の知
るかぎり、これが最初である。リビア・マルタ事件の判決では、沿岸国が大陸棚をもちうるのは、「その海岸をとおし
て」ということであった。複数の沿岸国を有する湾は、およそ法的制度としての湾たる地位をもちえず、またフォンカセ
湾を歴史的湾と位置づける根拠もないとの反対意見もある。(小田滋裁判官、前掲、国外、116頁)2)いずれにせ
よ、本件も、領域にかんする国際法の灰色の部分において、判決が、いかに当事国の権利義務関係を明確にし、あ
るいは、裁判所がいかに立法的な性格をおびた判決をもくだすかの一端をうかがいしることができる。大陸棚の開発
が可能になり、それにたいする主権的権利の行使がみとめられるや、この制度は、その生成過程において、いろい
ろ複雑な態様にであろう。そのような場合、ましてや一方的な主張がそのまま、つねに国際法の支柱にたっていると
の独善は危険であると、ここでも一言のべておきたい。3)前項の3)についてであるが、米国が尖閣諸島の施政権を
日本に返還することにたいしては、中国がつよく反発した。

 註

(1)ギリシアがトルコ沿岸のほとんどの島を領有しているので、現在も問題が発生している。

(2)1996年には、インドネシアとマレーシアとの首脳会談で、シパダンとリギタン島の領有権問題を国際司法裁判所
にゆだねることで合意した。

(3)横田洋三、前掲、258―259頁


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