はじめにまず竹島の認知から現在にいたる間の同島の歴史的事実について、日本と朝鮮との関係を中心に簡単に考察していく。
1.竹島の歴史的事実
(1)竹島の認知については日本では1667年に松江藩士が著した「隠州視聴合紀」等の文献により「松島」の名によって知られていた。
(2)韓国側は朝鮮の「世宗実録地理志」「新増東国輿地勝覧」「成宗実録」等の古文献にある「于山島」「三峯島」が今日の竹島であると主張している。が、これらの島には多くの人が居住し、大竹その他の天産があると記されているところから、それらが今日の竹島に該当していないと言える面が強い。
(3)朝鮮王朝は15世紀以来、鬱陵島に対して空島政策をとり、事実上放棄した。そうした状況下で1618年から1696年にいたる78年間伯耆国米子商人は幕府の免許を得て竹島渡海事業を行った。
(4)1696年伯耆国に安龍福ら11人の朝鮮人が船に乗ってやってきた。韓国では、安龍福が鬱陵島に越境侵犯してきた日本人漁夫を追い出し、隠岐を経て伯耆州に行き、関白に鬱陵島と于山島が朝鮮領であることを確認させたという(安龍福事件)。ただ、安龍福が来日したのは1696年6月4日であるが、その年の1月28日に、幕府は竹島(鬱陵島)が朝鮮領であることを認めて、日本人の渡海を禁止し、鬱陵島をめぐる領土紛争は落着していた。安龍福の供述と日本側の関係史料では、事実関係で大きな相違がある。
(5)1905年1月28日に、日本政府は閣僚告示を発して竹島領有を確認し、2月22日付島根県告示第40号で竹島を日本領土に編入した。こうした領土編入における手続きは当時とられていた日本政府の慣行であった。
(6)第二次世界大戦後、日本は一時的に連合国に主権行使の制限を受けた。一方、日本の敗戦とともに、韓国は日本の植民地支配から解放された。まず連合国は1946年1月29日の「連合国最高司令部訓令第677号(SCAPIN677号)」で竹島に対する日本の行政上・政治上の管轄権を一時的に停止することを命じた。さらにSCAPIN1033号で「マッカーサーライン」を設定し竹島周辺海域を日本の管轄範囲外に置くことを決めた。ところが対日平和条約(1951年9月25日調印)において連合国は日本の支配から排除される地域を2条に定めたが、除外される地域として竹島には言及しなかった。
(7)1952年1月18日、韓国の李承晩大統領は突如「隣接海洋に対する主権」を宣言し、「李承晩ライン」を設定した。日本政府は1952年1月28日韓国政府に抗議したが韓国政府はSCAPIN677号を盾に領有権を主張した。
(8)翌1953年2月4日の第一大邦丸事件、7月12日の韓国官憲発砲事件が発生。1954年9月以来、韓国は独島の武装化を決行し、武力占拠している。そこで日本政府は1954年9月25日、竹島の領有権問題を国際司法裁判所に提訴しようと、韓国政府に提議したが、10月28日に拒否された。
(9)1965年に14年越しの日韓会談が妥結し、両国間の懸念は大方解決されたが、竹島の帰属問題だけは最後まで意見の一致が得られず、紛争を将来に持ち越した。
2.竹島紛争の争点
日韓両国の間に竹島についての割譲条約や国境境界条約などの国際条約は存在しないという事実と以上の歴史の流れを踏まえ、竹島の帰属をめぐる紛争を国際法の見地から見ると、争点は3つに絞られる。
第一は両国の主張する歴史的根拠の有効性、第二は1905年の日本政府による領土編入措置の効力、第三は第二次世界大戦中のカイロ宣言から対日平和条約に及ぶ一連の措置の意義である。
これらについて検討する前に、本事件の先例を探してみると、まったく同じではないが1953年の国際司法裁判所のマンキエ・エクレオ判決(☆1)がある。どちらの事例でも関係当事国は互いに古くから問題の島を領有してきたと主張している。マンキエ・エクレオ判決から分かるように、本件解決の決め手となるのは、信憑性が疑われる歴史的事実に基づく根拠ではなく、実効的占有の有無である。また1933年の東部グリーンランド事件(☆2)をみると「主権者として行動する意志・意図」「国家権力のある程度の現実の行使または発現」が領域主権の存在の要件であるとした。
そこでこれから1905年の日本領土編入の有効性と第二次世界大戦後の措置の意義について述べていく。
1905年の日本政府による竹島編入の有効性
1905年、閣議決定およびそれに続く島根県告示により、日本政府は近代国家として竹島を領有する意思を再確認。韓国は竹島におけるアシカ漁を取り締まらず、放置、また日本に抗議する事もない。
その後、日本は実効的な支配を第二次大戦の終結まで継続しているため、国際法の要求する諸要件は完全に充足されているとみる。
●韓国側の意見:
① この措置は、無主地に対する先占の行為にほかならないが、竹島は無主地ではなく歴史的・地理的に韓国領土であった鬱陵島と不可分の関係を維持してきた属島である。であるから、この日本の一方的国内措置は国際法上なんの効果も生じ得ない。
② 逆にこの措置は、日本が竹島をその領土の一部とみなしていなかった事を証明するものである。日本が竹島に対し領土主権を有していたとすれば、この時期に竹島を自国領土に編入する措置をとる必要がなかったのではないか。
③ 日本の領有意思は地方庁によりきわめて秘密裡になされ、韓国政府に通告がなかったことは(どの国においても閣議決定は"極秘"でない限り、<官報>に掲載し、国民と世界に知らせるもの。日本政府もそうしてきたが、この領土編入のみ、それを避け、島根県の県庁で公示しただけであった。この行為は、知られまいとする、"こっそり盗み取ったようなもの"で無効である)国際的効力を生じえなかった。
④ 朝鮮政府は、当時日鮮協定により、また日本政府の外国人顧問を通じて日本政府の完全なコントロールの下にあったから、抗議するすべがなかった。
●日本の見解
①② 日本の措置が無効であると主張するためには、韓国がみずから竹島を実効的に支配していた事実を証明しなければならない。それは、1905年以前に日本の当時存在していたものよりもいっそう強い権原を竹島に対して持っていた事の証明であり、これだけが有効な反論を構成しえるのではないか。つまり韓国が竹島に対しなんらかの権原を有していたと仮定しても、それが竹島の日本領土編入以前に実効的占有に基づく権原に代替されたことの立証が必要になるのである。①②は"その証明がなされない限りは日本の主権の下に有効かつ確定的に置かれた事を動かす事が出来ない、目的を欠く無意味な議論であるにすぎない。"とされる。また②については、これにより明治政府は竹島を島根県に編入し、国際法的にも日本の領土にしたという反論もできるのではないか。
③ 通告は国際法上、領土編入の要件とはされていない。この措置は、近代国際法によって要求される領土取得の要件を満たしたものである。
④ 実際に抗議しようとして、それを日本の責めにあい、阻止された事実が記録されているかが問題となるのであり、仮説的にこの事情がなかったならば抗議しえた、という主張は問題にならない。
マンキエ・エクレオ事件から:1905年以前における韓国政府の実効的支配はほとんど皆無の状態であるため、日本の優位は動かないものと思われる。
次に第三の争点である、日本の敗戦後における竹島の扱いについて、考えてみたいと思う。まず、日本は、第二次世界大戦に敗北し、一時的に連合国によって占領され、主権行使において、一定の制限を受けることとなった。日本の敗戦によって、韓国は日本による植民地支配から開放された。ここで、竹島に関する連合国の措置について見ていくと、まず、1946年1月29日に出された「連合国最高司令部訓令第667号(正式名称:若干の外郭地域を政治上・行政上、日本から分離することに関する覚書)」を検討しなければいけないだろう。この覚書の項目3に、日本は北海道、本州、九州そして四国の4つの主な島と、その他の1000の島を含むことと規定されている。その他の島には対馬、琉球島(口之島は除く)が含まれる。そして、除かれる地域として、鬱陵島、リアンクール岩礁(竹島)クウェルパート島(済州島)・・・などが規定されている。これを見ると、戦後、GHQによって日本の竹島に対する政治上・行政上の権限が制限されることとなったのは確かだろう。また、連合国は、6月22日に、いわゆる「マッカーサーライン(正式名称:日本漁業および捕鯨業に認可された区域に関する覚書)」を出した。これによって日本の漁業管轄範囲に関しても、項目3の(b)にあるように、「日本の船は、竹島(東経131度53分、北緯37度15分)から12海里以内には近づいてはいけない・・・」との規定がなされ、竹島周辺の海域が日本の管轄範囲外に置かれることとなった。しかし、ここで2つのGHQ覚書を見てみると、それぞれに、次のような項目がある。それは、「この覚書は、ポツダム宣言の8条に言及されている小さな島についての、連合国による領土の最終決定に関する政策を示すものと解釈してはならない」そして、「この認可は関係地域またはその他のどの地域に関しても、日本の管轄権、国境境界線または漁業権についての最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」という項目である。これについては、さまざまな見解があるが、この規定に関しては、次のように考える。このGHQ覚書は、先ほど述べた項目にあるように、日本の領土に関する、文字通り、最終的な決定ではなく、連合国が日本に対して行う占領時の行政における一時的な措置に過ぎない。日本の主権を一時的に制限するためのとりあえずの措置でしかないと考える。
この戦争によって引き起こされたさまざまな問題、そして領土の最終的処理が行われた日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)では、第2章 領域 の項目で、日本の領土についての規定がなされている。第二条には、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とかかれている。ここには、先ほど述べたGHQ覚書には記載されていた「竹島」の記述がなくなっている。そして新たに巨文島という文言が付されている。この講和条約の内容から考えてみると、GHQ覚書は、日本の竹島に対する管轄権を停止する内容ではあったが、先ほど述べたとおりに、これらの覚書は、「連合国による日本領土、漁業権に関する最終決定を示したものではない」のだから、これは一時的なものに過ぎず、最終的な決定は「日本国との平和条約」によってなされていると解することができるだろう。そして、その最終決定である講和条約には、「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む・・・」という風に明らかに除外されているところを見れば、一時的には竹島を領土から除外して、主権を一定の制限下に置いていたが、日本が主権を回復することによって、その制限を解いたということなのではないだろうか。強調しておく部分としては、領土問題に限らず、一般的に戦争によって引き起こされた事態を最終的に処理するのは、平和条約によってであり、そこに述べられている内容に含まれていないことにまで敗戦国といえども拘束されることはないということである。
以上のように見てみると1905年以来、竹島は日本の領土である。
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